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アナル処女は-2である

山路を登りながらこう考えたんですよ。アナル処女は-2なんだって。 

まあ、こう言っても誰もわかりませんよね。分かったら狂人です。本当に怖い。早く精神病院に行ってください。しかし、精神に異常をきたしていないあなたでも、この記事を読み終わったとき、完全にアナル処女-2論法を理解していることでしょう、保証します。

さて、本日私は登山に行ってきました。登山です。最高ですね。登山をしていると、もう本当にいろんなことを思いつきます。なぜなら、歩いているときに人間の脳は活性化するからです。カフカもトルストイもディケンズも散歩好きだったそうです。

さっき、検索窓に「作家 散歩好き」で検索して調べました。情報ソースはアフィカスブログなので信憑性はもう無いと言っていいです。「顔射は避妊」と同じくらいの信頼度です。

閑話休題。
その登山を終えたあと、次の山に移動するため、バス停まで歩かなきゃいけなくなったんですね。で、時計を見るじゃないですか。バスの発車まであと10分なんですよ。で、GoogleMapをさっと展開したらバス停まであと2キロあるんですよ。もうアホかと。当然走りましたよ。


私、走ると碌でもないことを考え出すんですよ。本当に碌でもない。多分、脳の「碌でもない野」みたいなところが刺激されてるんでしょうね。
それはいいとして、バスが遅れていてくれと念じながら走っていく私の横をクソ田舎特有の爆走車がバンバン走り抜けていくんです。

で、ここでもしも車がすっと止まって私の横に来てですね、そこでちょっとガタイのいいお兄さんが、「兄ちゃん、乗りなよ」とか言ったら、私はのって行ってしまうのではないかと。そう思いました。


でもそれってヤバくないですか?そのお兄さんはガチホモで私のアナル処女を奪いに来るかもしれない。そんな想像をして震え慄いていたとき、ふある大きな未解決問題の解答、その断片のようなものが私の頭をかすめたのです。

なぜ処女と童貞の意味するところは同じなのに、童貞は蔑まれ、処女は尊ばれるのか。
この問は、今まで多くの思索者を悩ませてきました。だっておかしいでしょう。どちらの言葉も性行為を経験していないことを表すのに、片方は「処女膜から声が出ている」などと持て囃され、もう片方は「童貞死ね」と社会の最下層扱いされ、「弱者男性」などと吐き捨てられる。

しかし、そうではなかったのです。
童貞と処女は完全に等価だったのです。
いままでは、
童貞の価値=-1
処女の価値=1
というふうに考えられてきました。

では、この2つが同じ価値を持つと仮定してみましょう。童貞の価値=処女の価値=xとおくと、
x=-1
x=1
となります。式が成立しません。しかし、こう考えればどうでしょうか。
童貞:x-y=-1
処女:x=1
そう、童貞の価値を下げているものの正体を、yとおいてみるのです。


賢い読者の方はもうお気づきでしょう。このyこそ、アナル処女なのです。
先程挙げた式を解くと、
y=-2
となります。つまり、アナル処女の価値は-2なのです!


これが私の唱えるアナル処女-2論法の全貌です。理論は実践を伴わなければ意味がありません。賢い人は気づいているでしょう。この式はとんでもないことを表しているのです。


そう、アナル処女を捨てることで、童貞の価値は処女と同じになるのです!
童貞の皆さんはアナル処女を棄てることで、さらに一つ上のステージへ上り詰めることができるのです。


最後に、この理論をまとめておきましょう。
“処女の価値と童貞の価値が等しいとき
x=処女の価値=童貞の価値
y=アナル処女の価値
と価値とおくと
x-y=-1
x=1
が成り立つ。
また、このときのアナル処女の価値は-2である”


いま私はこの理論を世界に発信できて誇らしい気持ちでいっぱいです。

バスですか?ええ、乗れませんでしたよ。

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