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そのバトンは子どもにも持てるか

先日、twitterに投稿した僕の書き込みが、なんだか普段とは比べ物にならない勢いで拡散された。

なんとなく、それはそれとしてほったらかしにしといても良いとも思ったのだけど、140字ごとに分けてまとめた内容では僕が問題視してたことは伝わりきっていない事も多いだろうし、あれから数日経て、わりと明確に僕の中で答えが出たことがあるので、ここに記しておこうと思う。

その前にまず断っておくが、これから書く文章において、批判や評価をする意図は一切無いことを伝えておく。
僕は本イベントへの企画者、出演者、関わるスタッフや僕と対話した男性へも敬意を持って接しており、誰が正しいとか間違えてるとか、誰が悪いとかおかしいとかそんな二者択一的な事を論じるつもりは毛頭ないので、理解して欲しい。
これは、あくまでこれは僕個人の内障的な葛藤を言語化したものである。

とりあえず、以下の文が僕がtwitterに記したものになる。

ロシアのウクライナ侵攻への抗議として新宿南口で行われたNO WAR 0305に、GEZANのメンバーから人手が必要と連絡が入り、何人か友人らに声をかけ手伝ってきた。 あらゆる配慮がなされ、理性的で秩序のとれた良い集会だったが、社会運動の難しさを実感する出来事があったので備忘録を残しておく
(1/13)
イベントが始まるとみんなテキパキと動いて、流れに乗りそびれた僕はやる事がなくなってしまったので、雑用をこなしながらどこかでトラブルが起きてないか周囲をパトロールをしていた。 時間が経つほど、集まる人々は増え続け、道路を挟んだ向こう側にも沢山の人がおり、僕は反対側も見て回った
(2/13)
特にトラブルは見当たらずステージのある歩道側へ戻ろうと横断歩道で信号待ちをしてると、向かい側にとんでもないプラカードを掲げている老人を見つけた。 『プーチンは人類の敵 ヤツをこの地上から叩き出せ。【さむらい正義団】』と言ったプラカードで「さむらい?」「正義?」とモヤモヤとした
※実際の表現は「この地上」ではなく「この世から叩き出せ」だった(3/13)
その老人は横断歩道を渡ってくる人たちに真っ先に目がつく位置に立っていた。 この集会の入り口部分とも言える場所で、募金係とも隣り合っている老人。ドンピシャのタイミングで切腹ピストルズのライブが行われており、まるでこの集会がサムライ正義団の主導のような印象を与えかねなかった
(4/13)
誰がどのようなプラカードを掲げても自由ではある。 しかしこれは誤解を生みやすい。 でも、イベントの趣旨にそぐわないといって主催者でもない自分が「そのプラカードを下ろして」と言う事はできない。というか、主催者だったとしても他人の権利に口を出す事ができるだろうか。と僕は悩んだ
(5/13)
しかし、これを放っておくと、ここに集まる人々がナショナリスト集団とも取られかねない。 もう、どうして良いか分からなすぎて僕はひとまず、この老人と会話をするしかないと思い、声をかけた。 U「すみません、そのプラカードどういう意味ですか?」 老人『見ての通りだよ』
(6/13)
U「叩き出せって"殺せ"って意味ですか?」 老人『あ、いや。そうじゃなくて叩き出すんだよ』 U「人類の敵をどこに叩き出すんですか?」 老人『そんなのどこでもいいよ』 U「日本でも?」 老人『…。これってやっぱり過激に見えるかい?』 老人の空気感が変わってきた
(7/13)
U「はい、僕はとっても怖いです。プーチンを殺せと言ってるように見てとれる。プーチンに怒りを感じているのはみんなあなたと一緒だと思います。でも今日の集会は、戦争そのものを否定し、みんなで考えていくためのものです。その看板は、暴力に暴力を重ねようとしてるようで僕は不安になる」
(8/13)
老人『そっか、そうだよね。実は私もこれを描き終えたときに過激かなとは思ったんだけどね、もう書いちゃったから…』 U「そうなんですね。とにかく暴力以外の、新しい時代の新しいやり方をみんなで考えていきましょう」 と、僕は去ったが、老人がプラカードを下げることはなかった。
(9/13)
U「うわー、話して分かってもらえたと思ったのに…。一体どうしたら良いんだ。」と募金係をしていたヤカモちゃんに相談すると「こっちで用意したプラカードとか持ってもらえたら良いんだけどね…」と言ってきたので、「それだー!!!」となって、再度老人の元に向かった
(10/13)
U「ねえ、このプラカードどうすか?多分、こっちの方が通行人に威圧感を与えないで、問題意識を共有できると思います。」 と言うと老人は納得してくれてそのプラカードを掲げてくれた。 これは対話の大事さを気付く出来事でもあったが、必ずしもみんながみんな話が通じるわけでもない。
(11/13)
また、そのことによって身に染みて感じた事は、こう言った不特定多数の人々が集まる社会運動は、たった一人の存在で、人々へ与えるイメージを大きく変えることも、平和的なものを露悪的に印象づける事も容易で、非常に脆いものだと改めて気付かされたことだった。
(12/13)
もちろん、陰湿な悪意への対応もそうだけど、主張の入口が一緒でも、出口が違い過ぎる人たちとどうやって関わっていくかというのも考えていかなければ、自身の望まない流れができてしまう。 人々は過激なものに目がいくし呑まれやすいからこそ。 考えることは尽きない。
(13/13)

13個のツリーに分けて僕はこの文章を書いたのだが、最初から最後まで僕が一貫して伝えているのは「社会運動の難しさ」である。
この話は比較的、好意的に受け止められている数の方が多いものの、否定的な意見も当然ある。実際に、その否定的意見は、僕自身も認識していた自己矛盾や自己批判とも重なる非常に的を得たコメントもあり、それらに対してさらなる異論を唱えるつもりはなかったが、状況説明が不十分と考え、補足を加えた。

こちらのツリーにも補足で追加しておきます。 表現の自由や他者の考えを押しつぶしたことになるのではという意見は僕自身も悩んだところです。 おそらく、この人が「さむらい正義団」ではなく、「さむらい正義マン」と書いていたら、僕の行動も違ったと思っています。
ただ、この老人の立ち位置が、募金箱を持つ人々と並ぶように立っており、一個人の意見以上に「集団の総意」と捉えられる可能性が高い事を危惧しました。 そのため僕は話し合って、お互いの折り合いを探ろうとしたのです。 話の内容によっては、立ち位置を移動してもらうなどの方法もあったと思います。

しかしながら、この補足を加えても、僕が行動を起こすまでの思考過程を伝えるには全然言葉が足りなかった。

そういうわけで、順を追って僕の思考をなぞっていく。

❶完璧なタイミングの登場

そう、まずはタイミングがすごかった。

「江戸からやってきた!」と吐き捨てるようにステージに登場したのは、どうみても現代人には見えない風貌の非常に和風で古風な見た目の男たち、「切腹ピストルズ」である。
響き渡る鐘の音と地響きのような太鼓がステージから聴こえ、祭りが始まったかのような高揚感を湧き上がらせくれる。思わず踊り出してしまいそうになるのを抑えながら僕は「ステージの近くまで見に行っちゃおうかな」と思っていたその時、信号待ちで目に飛び込んできたのが「さむらい正義団」の文字だった。
その直線上に並ぶ募金箱を持つ人々。
もう、最初は冗談みたいな光景で笑うしかなかった。だって、これだよ。

この姿と音楽、しかも、演奏の合間にはステージでずっと江戸の話してるし、絶妙な立ち位置にいる「さむらい正義団」を視界の外に追いやるのもかなり難しい。
もはやこれは、謎の巨大組織主導の「打倒プーチン集会」のように見えてもなんらおかしくない。
今日のNo War集会のことも、切腹ピストルズの事も知らない人からしたら、この二つが無関係と思うことなどできるのだろうか。
そうすると、本来の"善意"による募金が、怪しさや疑いにかき消され、募金額が減る可能性がある。
また、募金をした後に隣のプラカードに目を向けて「あ、変な組織に間違えて募金してしまった」と、不安を与えるかもしれない。
そうなることは避けた方が良いのではと僕は考えた。

※補足しておくと切腹ピストルズはサムライではなく百姓なので、ある種サムライとは全く異なる立ち位置にいる。

❷なんのための集会なのか

さて、ここで僕はどうするべきか頭を整理していく。
これって、誰のためになんのためにやっているのか。何を目的としているのだろうかというところに立ち返る。
この集会は、人々の怒りの感情をそのままに声を上げるような、これまで多くなされてきたデモや集会とも似ているようだけど少し違う。
元々デモなどにも参加しにくかった人でも足を運んだり、平和を願う人々の思考や行動を起こすための入口となるイベントであると僕は認識していた。

ステートメントを思い返す。

簡単に言い切れないような複雑な分断が目の前で入り乱れている。ただ確かなことはそのことを生み出した戦争、そのことに対する確固たるNOだ。
世界中で起きてるデモ同様に、戦争反対で人が集まることは意義のあることだ。
わたしたちはこの侵攻によって苦しい立場にいるあなたを気にかけているというメッセージは世界中で朝のリレーのように繋がり、決して小さくない意味を持つ。
NOWAR0305 ステートメントより

明確に「戦争反対」という一点だけを指し示し、その声をあげること。
そこから何かを持ち帰った人々が小さくともその想いを紡いでいくこと。

このNO WAR03/05ではこの戦争によって傷ついた戦争被害者や難民支援を行う団体への寄付を呼びかけたい。
NOWAR0305 ステートメントより

そして、声をあげる以外でできる最大の物理的サポートでもある寄付金集めである。

やはり、その寄付活動が不可抗力によって阻害されたり、人々の善意を利用した怪しい団体の活動資金として疑われようなことは避けるべきではないだろうか。とその時は考えた。

また、僕が悩んでいる間にも、このたった一人のさむらい正義団の存在に気づき始めた募金係の人たちが明らかに距離をとり始め、通行人と集会参加者の境界が崩れ、人々の動線も歪つになってきていた。

❸表現の自由、言論の自由とは?

でも、どうすれば良いのか。
僕自身が、他者から「あれをしろ」「これをするな」なんて絶対に言われたくないというのに、どうして他人にそれを強要できるだろうか。
また、このイベントのステートメントにも以下のような文言がある。

3/5の新宿、自分で考えて持ち寄ったNO WARのプラカードを持ってきてほしい。上手くても下手でもいい。でも書けないって人もいるので、イラストレーターや絵描きの皆さん、使ってもいいという絵があればセブンイレブンコピーのリンクにさせてほしい。それぞれの表し方を尊重する。

そう、主催としては参加者の気持ちに寄り添い、表現方法も全て委ねている。
だからこそ、僕のように過剰に言葉や表現を問題視すること自体がおかしな話であるし、僕はある種、主催の意思に反くようなよこしまな心情を持つ異物とも言える。

でも、もしこれが「プーチンを殺せ」という直接表現だったらどうするべきか?
もしくは「ロシア人をこの世から叩き出せ」だったら?
それもOKにしてしまうか?それともNG?
では、もしNGだったとして、その線引きはどこにある?誰が決める?
どこからが差別的発言?どこからが暴力的発言?
考えれば考えるほど答えがでる気がしない。
また、戦争を止めるための方法論は様々だろうから、「ウクライナ人は抵抗をやめろ」「アメリカとNATOは即刻軍事介入せよ」「ロシアに核を撃て」そのような言葉だって出てくるかもしれない。
それらを少しずつ無視し続けていけば、言葉はより鋭利になっていかないか。
平和を願う気持ちはみんな同じはずなのに、それぞれの正義を振りかざしてきたとき、その運動体はどこへ向かうのだろうか。

そんな事を僕は頭の中でごちゃごちゃと考えた結果、
「表現の解釈は人によってものすごく曖昧なものだからこそ、僕のモノサシだけで測って感情的になってはいけない」という結論にいたり、現状この場では「なにもできない」と判断した。

❹表現の自由、対話の自由

普段、個人で何かを表現するとき、何を歌っても何を描いても自由で許されるけど、バンドとなったら、メンバーと相談したりしながら曲を作ったりするし、嫌な表現があれば「それはイヤだ」と伝えたり、「もっとこうしたら良くなる」なんて話し合いながら、より良いと思えるものを作っていったりする。それって別に悪いことではないはずで。
でも、それがさらに人数が増え流動的になったデモや集会となってしまったら、多くのことが個々の采配のみに委ねられるというのは、ある意味で理想的であるし自由でもあるけど、でもなんだか何かを諦めてる気もする。
だって、これが音楽ならメチャクチャになる。絵ならグチャグチャになる。

(ただ、今回のイベントに関しては、言葉の力に溢れたステートメントを提示することによって、方向性を一点に定めながら、あの規模感では他には見られないほどのまとまりを保つことが出来ていたのは、すごく驚いたし、希望も感じた。)

こういったデモや集会にはもちろん"表現"は介在するが、"個々の表現の場"であるべきなのか考えたとき、「なんか違うんじゃないか」と僕は思ってしまった。
でも、この場を"表現の場"とするより、集会そのものを"一つの表現"と捉えることにしたらどうだろうか。
この日で言えば、「NO WAR0305」という一つの音楽を作るようなものとして。

それは、誰もが歌いやすい歌詞で。誰もが飛び込みやすいコード進行で。家に帰っても口ずさめるようなメロディと。忘れた頃にもふっと思い出してしまうようなリズムもあって。なにより、子どもだって歌えるようなそんな曲を作り出すような感覚はどうだろうか。

なんだか個人的にはすごくしっくりくるけど、急に詩的な表現を挟み込んでしまって恥ずかしくなってきたな。
まあ、いいや。なんにせよ、そんな曲の中で、突然メタリックなギターソロとか弾いちゃう人が出てきたら戸惑ってしまう。

それに対して、僕以外の誰かが「そのギターソロは曲に合わないから弾かないで」と強めの姿勢で対応してくる可能性も十分に予想される。そうすると対立や反発の火種となり、この平和的な合奏から不協和音が生じてしまう。
そんなこともありえるとしたら、とりあえずは僕が話をしにいくというのが最善策な気がする。
話をする以外はなにもできないけど、話さないことにはなにも分からないから。

会話とそのあとの話

それから、僕はそのプラカードを持つ男性と会話をした。
世間話をするようになるべくフランクに、お互いが嫌な気持ちにならないように心がけながらも、それでもちゃんと自分の意見を持って。

「できれば看板を下ろして欲しい」という思いで、その糸口を探るために話をしてる時点で「他者をコントロールしようとしていた傲慢な人間だ」と言われれば、僕は否定のしようもない。
第一、相手にプラカードを持ち替えさせたその瞬間から僕自身も「自分が思い描く理想の形に持ち込んでしまった」と、安堵とともに猛烈な罪悪感も襲ってきてしまい、「本当に相手は納得してくれたのかな。」「自分を否定された気持ちになってないかな。」「新しいプラカード持ちにくくないかな。」「もっと別のデザインとかが良いかな。」そんな事を悶々と考えながら、その人が帰るまでに何度も話しかけ、最後にはお互いに「ありがとう」という言葉を残して別れることができた。
はじめ、僕は「集団の中の一人」として彼との会話に望んだが、最後そこに立っていたのは「わたし」と「わたし」だったと思っている。

本題

長々と思考の経緯を書いたが、本題はこれではなく、最初の方にも言ってるとおり、「社会運動ってめちゃくちゃ難しくないですか?」って事である。
ただ、これを掘り下げて書いたらさらに文章が長くなってしまいそうでもある…。

とりあえず、僕は沖縄で生まれ育ち、遠からず近からずの距離で米軍基地反対運動などを見てきて、どうしても考えすぎたり危惧することが多かったと、その話を軸にすれば多少は短くまとめられるだろうか。チャレンジしてみる。

なんというか、分かってる人はよく分かってると思うけど、本当に政治的なものの情報の切り取られ方って、目眩がするほどにエグいのはご存じだろう。
そういった切り取られた情報が広まると、とにかく強烈な悪意や評判を呼び寄せ、簡単に崩れてしまうほどものすごく脆い。

もう数年前になるけど、僕が一度、辺野古基地の反対運動の現場へ行ったときの話になる。
当時から今に至るまで、米軍基地の反対運動に関しては、様々な憶測や噂、陰謀論めいたものまであらゆる情報が交錯しており、ちゃんと現地でどういう状況か目にしておかなければと思い向かったのだ。

テントに到着し、しばらくすると目の前を右翼の街宣車がビデオカメラでこちら側を撮影しながら非常にゆっくりと徐行してきていた。
街宣スピーカーからは「このクズ野郎ども!恥を知れ!!お前らは生きてる価値のないゴキブリだ!ウジ虫ども早く死んでくださーい!」といった、聞くに耐えない罵詈雑言を浴びせてくる。それに対して、当然怒り出す人も出てくるが、街宣車に乗る人らは、さらなる挑発をしてきて座り込む人々を煽り続けた。

そして後日、自分たちの発言は全てカットした上で「凶暴で暴力的な沖縄左翼の正体」といったようなタイトルでYouTubeやSNSなどで大量に拡散されていたのだ。
そんなおぞましい事が日常的に繰り返されていても、それを知る人はごく一部で、当然そんなことを知らない人たちが映像を見れば、座り込みの人々へ最悪の印象しか受けず、暴言を吐いてるはずの撮影者へは同情の声で溢れた。

また、頻繁にそのような悪意に晒され続ける座り込みの人たちの心もギスギスとして疑心暗鬼になってくるのか、工事車両以外の米軍基地から出てくるファミリカーなどへ対しても声を荒げる人も見受けられた。
僕自身、辺野古への埋め立ては反対という気持ちがあるものの、「子どもを怖がらせて何になるというのか」という想いと共に、この場にいるのがしんどくなりながら、これは少しずつ何かが狂っていってしまった末路ではないかとも感じた。

※ちなみに現在の辺野古の様子はどのような雰囲気か分からない。もしかしたら、誰かが「こんなのは良くない」と抗議方法などがある程度ルール化されて改善されてるかもしれないし、改善されていないのだとしたらどうか改善していて欲しいと僕は願う。

だから、社会運動を続けるときには不安の芽は小さな内に対処しておいた方がいいし、あらゆる対策や一定の決まりごとも考えておいた方がいいと僕は思ったのだ。

一部の参加者の一部の行動を撮影して全体を論じる者は、悲しい事に非常に多い。実際、上述した子どもの乗る車へ抗議していた者はたった一人しかおらず、それ以外の人たちは親切で平和的であったと思うが、どうしても僕の印象はそのたった一人の人間に引っ張られてしまってサポートしにくい環境であると認識してしまったのもいい例だ。

今回のことも踏まえて、社会運動はたった一人でその全体のイメージを塗り替えられるというその危うさと難しを感じたので、これから誰かがなにかの行動するときは、本当にどういった事が起きるか分からないから、あらゆることを想定して対処法を決めておくに越したことはないよね。考えすぎて身動きがとれなくならない程度に柔軟に。って話をツイッターでは伝えたかったのだけど、僕の言葉が足りない(というか、まとめ下手な)せいで、僕の想いとは別の部分で拡散されてしまった。

どんなに考えてみても、きっと正解なんてないかもしれない。
あるいは、いくつも正解があるかもしれない。
なにをしなくても、なにをできなくても、それでも考えることが大事だと僕は思ってる。それはいつかのために。
そして、そのいつかは今日になるかもしれないから。

さいごに

僕らは誰もが自由であるべきで、わざわざ他人と同じ事をしなくてもいい。同じ事を言わなくても良い。同じである必要はない。
でも、他人を尊重しているようで実はただ一緒にいるだけというのは、調和を保つこととは少し違う気もする。
いつか、目を逸らしていたものが目の前にやってきたとき、多様性という言葉の前でつまづく事にならないように、僕らは様々な方法を考え探りながら、お互いが快適でいられるほどよい距離を保たなくていけない。


きっと様々な状況や環境、立場で変わりゆくものかもしれなくて、なんにでも当てはまるわけではないけど、もし、またどこかで線を引かないといけなくなったとき、なにかを託さないといけなくなったとき、僕なりに考えに考えて、なんとか結論を出すことができたので、最後にそれだけを伝えておきたい。もちろんそれは、僕個人が導き出した答えでしかなく、「誰もがそうであれ。」という話ではない。

まず改めて、GEZANのマヒトくんの言葉を引用する。

世界中で起きてるデモ同様に、戦争反対で人が集まることは意義のあることだ。
わたしたちはこの侵攻によって苦しい立場にいるあなたを気にかけているというメッセージは世界中で朝のリレーのように繋がり、決して小さくない意味を持つ。
NOWAR0305 ステートメントより

朝のリレーか。すごく良い。
これを読んで僕は、できればそのリレーで繋ぐバトンは軽ければ軽いほどいいような気がした。
誰もがそのバトンを持ちながら走れるような、途中で落っことしたりしないでまた誰かに渡せるような。そんな軽いバトンが良い。
でも薄っぺらいわけじゃない。中身はしっかり詰まっている。それなのに軽いそんなバトン。

これから社会と向き合う上で、なにかの選択に悩むとき、正しさを迫られる時、僕は僕に問うだろう。

「そのバトンは子どもにも持てるか?」

サポートしてくれたお金は僕のおやつ代に充てられます。おやつ代が貯まるとやる気がみなぎるかもしれません。