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ばあちゃんが新型コロナウイルスにかかっていた

昨夜、父親から「ばあちゃんがコロナウイルスにかかって入院していて暇そうだから電話してあげて」とのメールが届いた。

文面からして全然緊迫感が感じられないので、きっと重篤なわけではないのだろうが、とは言え、80歳近いばあちゃんが流行り病で入院しているというのは心配になる。

すぐに電話をかける。なかなか電話をとらない。近くに携帯電話を置いていないのだろうか。心配が増してしまう。

一旦、電話を切ろうかと耳元から話したところで繋がると、けだるそうな声が聞こえてくる。普段の元気いっぱいで勢いのあるばあちゃんとは違うので不安は大きくなったが、話している内にだんだんといつもの調子でペチャクチャお喋りをしだした。


ばあちゃんの話

2年ほど前に突然父親からばあちゃんのインタビュー映像を映画にするか本にして欲しいと言われた。「ばあちゃんはまるで映画のような激動の人生を歩んできた。その証しを残して欲しい」と言われたのをふと思い出す。

僕がばあちゃんについて知っている事はそれほど多くない気がする。
僕が知っているばあちゃんのこと。うろ覚えで間違ってることもあるかもしれないけど少しだけ書き記しておこうと思う。


1

生まれは良い家だったと聞く。昔聞いた話で曖昧ではあるが、ばあちゃんの家系は天皇を警護する近衛師団の団員として、当時において、格式が高く最も名誉な職業であったという。しかし、ばあちゃんが年端もいかぬ子供の頃、第二次世界大戦が勃発。飛び交う砲弾を逃げ惑いながらも、結局家族は全員死んでしまう。アメリカ軍の捕虜としてたった1人生き残ったばあちゃんも戦火で右腕を失ってしまった。

家族も財産もない孤児となってしまったばあちゃんを親戚の人が引き取ってくれたが、非常に厳しい人だったと言う。ただ、その厳しさは利き腕を失ったばあちゃんが、健常者から哀れみや同情、馬鹿にされたりしないようにと、健常者と同じように生きられる力を与えてくれたと言う。


2

それから、大人になる頃、僕のじいちゃんにあたる大学教授と出会い、結婚をする。学校にも通えず、字の読み書きができない障害者として快く思わないじいちゃんの親族は親戚の警察官に頼んでばあちゃんの身辺調査をさせるが、近衛師団の家系である事が分かった途端に掌を返すように結婚を迎え入れたという。
それだけ、当時の天皇は尊敬の対象だったのだろう。

それから2人の間には4人の子どもが出来る。その内の1人が僕の父親である。
その父親が産まれる頃、じいちゃんは仕事前に毎朝早起きして病院にいるばあちゃんの見舞いに行っていた。とは、長女談であるが、数年越しにそれが実は不倫相手の元に行っていたという事が発覚する。さらに、その数年後に不倫相手との間には隠し子もいる事が発覚してしまう。
ちなみに、その事実を僕が知ったのはちょうど2年前である。僕にとっては酒飲みで口数は少ないけど優しいじいちゃんという印象でしかなかったので衝撃の事実であったし、ばあちゃんがしょっちゅうじいちゃんの憎まれ口を叩くのには合点がいきもした。


3

僕の父親が20歳の頃、僕の母親と結婚。僕が産まれる。ばあちゃんは「産んでくれてありがとう」と母に言ったらしく、母はその言葉がすごく嫌だったと言っていた。誰かを喜ばせるために産んだわけではないという気持ちが強く、それからは母はスポーツの応援などで最後に使われる「感動をありがとう」という言葉に嫌悪感を感じると言っていた。
その2年後、弟が産まれる。

小さな頃のばあちゃんの印象は口うるさくて怒りっぽいけど全く怖くなくてイトコのねえちゃんがよく悪さをしてホウキで叩かれていたのを笑って見ていたのを覚えている。
人前に出る時はいつも義手をはめて過ごしていた。子どもながらに「片腕だからといって恥じるものではない」のにと思っていたが、決して恥ずかしいから義手をしているだけではなかったと今では思う。

じいちゃんは年がら年中、酒を呑んでいて水筒に泡盛を入れて大学の講義に出かけるような人だった。歌がすごく下手くそで、歌を歌うとばあちゃんから「こんな音痴な歌聞かせないで」と、いつも怒られていた。僕はけっこう好きだったんだけどな。


4

僕が5歳の頃に両親が離婚。母方に引き取られるが、母親の計らいで幼い僕らが動揺しないようにと苗字は旧姓へと変えず、小学校二年生までは学校もそのままだった。家は母方のじいちゃんばあちゃん家になったが、そこから1時間ほどかけて車で登校していた。
学校が終わると父方のじいちゃんとばあちゃんの家で過ごしていた。
母親も子ども2人を養うために働き詰めていたこともあり、僕は今思い返しても、父方と母方の両方のじいちゃんばあちゃんに育てられたという気持ちが強い。
まあ、小学校4年生から6年生の間は家族や親戚から離れて愛媛の山奥で過ごす事になるので、空白の期間はあるが。

そんな僕が山の民としてすくすくと育っている頃、父親は再婚し、腹違いの妹が産まれる。
僕が中学の頃に2人目の妹も産まれる。下の妹はじいちゃんの事が大好きでいつもじいちゃんの膝の上に乗っていたのを覚えている。


5

沖縄は地上戦があったこともあり、平和教育がおそらく他府県に比べてかなり盛んであると思うが、学校ではよく戦争に関するビデオを見せられる。
その戦中を生き延びた人たちの証言者として、よくばあちゃんの映像が使われているのを観た。


6

僕が19歳の頃、じいちゃんが脳溢血で集中治療室に運ばれる。
ばあちゃんと2人で車に乗って買い物に出かけている時、車内で突然様子がおかしくなり、ばあちゃんは握ったことのないハンドルを操作しながら事故もなく路肩に車を停め、救急車を呼んだとのことだった。

手術は成功したものの、毎日欠かさず酒を呑んでいたじいちゃんにとってアルコール依存症の中毒症状は深刻で、ガタガタと激しく手足が震えるため、ベッドに手足を縛りつけられていた。

しばらくの間はそんな状態ではあったが、次第に体調は回復していった。
ただ、片側の半身はいうことを効いてくれず車椅子生活へとなった。
また、老介護施設でのリハビリを伴った生活へとなったが、ばあちゃんはせいせいすると言いながらも毎週じいちゃんに会いに行っていた。


7

ばあちゃんは、20年近く趣味で畑をやっている。無農薬にこだわり、毎日毎日丁寧な世話をして、出来上がった沢山の野菜を親戚や近所の人たちに配っていた。そんなばあちゃんの事を妬む人もいる。
近隣の畑の人たちから悪い噂を流されたり、畑のネットを切り裂かれたり荒らされたりということがあり、僕が監視カメラを設置しに行ったこともあった。
ばあちゃんは、話を聞いて欲しかっただけだろうに「きっと、あの人がやったに違いない。」なんて話を僕は「憶測で物事を決めつけるのは良くない」なんて言ってしまった事を今でもベストな返答ではなかったと反省している。
別に間違った事は言っていないが、間違っていないからと言って必ずしも正しいわけではない。
僕は、もっともらしい正論を言っておきながら全然ばあちゃんに向き合っていなかった。
重要なことはそのばあちゃんの言葉ではなく、今ばあちゃんは傷ついたり不安になっているというその事実なのだから。
その一方で弟のシンはその頃は頻繁にばあちゃんに会いに行って、話をずっときいてあげていた。
僕にはこういった優しさがいつも欠けている気がする。


8

2017年春、じいちゃんが亡くなる。僕はその時軽い気持ちでインドに行ってしまっていて、葬儀に参加できなかった。
沖縄に帰ってきて、じいちゃんに手を合わせにいった。じいちゃんは昔、若い頃に家の遺産相続の問題で兄弟仲が悪くなったことに嫌気が差して、相続を拒否して兄弟との縁を切ったと聞いた。そのため、じいちゃんが入る墓も仏壇もないらしく、じいちゃんの若い頃の写真だけが飾られていた。
父は、「なんで、今の俺より若い頃の写真なんだ」とボヤいていた。
すると、ばあちゃんは「じいちゃん頭がハゲはじめてから写真嫌いになったのよ」と言っていた。
そういや、子供の頃にじいちゃんにめちゃくちゃ腹が立って、頭のてっぺんがハゲてるのを罵倒してやろうと思って「うるさい!この天使!」って全然悪口になってない悪口を言ったことがあった。
天使の輪っかみたいだと思ったんだろうね。ものすごい笑われたのをよく覚えてる。

それから、ばあちゃんは「あんなに嫌なことばっかりだったのに、いなくなってみると寂しいもんだね」と笑っていた。


9

それからこの数年で、次第にばあちゃんは腰を痛め始める。
治療とリハビリのため病院に通っていたら、そこの看護師が新型コロナウイルスにかかっている事が発覚し、ばあちゃんも検査をすると陽性となり、7月の28日頃に入院が始まったと言う。

腰が痛くて1人でトイレにいけないからナースコールを押すと、防護服に着替えた看護師が慌ててやってきて、申し訳なさそうにしていた。

新型コロナウイルスの体内の潜伏期間は平均で5〜6日と言われており、長くて12日ほどで、最長だと17日。ばあちゃんはちょうどその最大の期間入院しており、明日か明後日に検査をして陰性であれば退院できるらしい。
電話中、一度だけ咳をしており糖尿病や喘息持ちでもあるから心配ではあるが、重症でないのはなによりである。


10

勝手に、そう簡単には死ななそうなばあちゃんだと思っていたが、人間いつ何が起きるか分からない。
話半分で聞いていた父のあの時言っていたお願いを思い返す。

「ばあちゃんの話を残してほしい」

考えてみれば、上に書いた話だってうろ覚えのものばかり。勘違いや間違った話もあるかもしれないし、長い歴史のほんの一部分ずつをかいつまんだ程度の事しか僕は分かっていない。
僕は、今度こそばあちゃんに向き合って話を聞くしかないような気がしはじめている。

ただ、なにかしらの作品を作るには人の力を借りないと僕一人ではできないような気もしている。
誰か手伝ってくれる人がいてくれたらいいのだが。

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