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忘戦歌05

父方の祖母である春子から話を聞いた僕は、母方の祖母にあたる由紀子からも話を聞くことにした。
ただ、どうしても時間の都合がつけられず、春子ほど戦後の話を詳しく聞くことはできなかった。
だが、そこにはまた違った物語があった。

疎開船に乗って

由紀子が生まれ育ったのは泡瀬という海沿いの地域だ。後に戦争の激戦区にもなる地域だが、由紀子は地上戦を経験せずに済んでいる。

由紀子は、桑江家という比較的裕福な家で産まれたが、女系のこの家では後継になる男児に恵まれず、由紀子やその姉、親戚も皆が女児ばかりだった。

由紀子は活発な性格で、「あなたが男の子だったら良いのに」と言われながら育ってきたからか、幼い頃は男児と共に遊び、物怖じしない度胸などが付いていた。

小学校1年頃になると、出兵する人々を見送りながら、馬車などを作る蹄鉄業をしていた父は次第に家に帰らなくなり、気がつくとほとんど姿を見かけなくなった。それは戦争が少しづつ自分の近くへ近づいてきている合図だった。

それから、2年後、地上戦が始まる約1年前になる。由紀子は姉と、数多くの子どもたちと共に学童疎開のため九州を目指すことになった。

※学童疎開とは
戦火が激しくなると予想される地域から児童を郊外の農山村に避難させたことをいう。 疎開先では授業も行われ,疎開地の学校もこれに協力したが,終戦直前の食糧難,物資欠乏のため,付添いの教師や寮母などはその調達に追われ,正常な教育はほとんど行われなかった。

ブリタニカ国際大百科事典より一部抜粋

日本本土の疎開は疎開先での生活費の1/3を負担しなくてはいけなかったが、沖縄に関しては県が費用の全額を負担して学童疎開を推奨したが、それでも疎開にいけるのは比較的裕福な家の家庭の子が多かったと言う。
また、由紀子の行った学童疎開は、幼い子の面倒を少ない大人で見る事が難しいとの理由で、疎開をするには兄弟が2人以上の参加が条件になっていたようだ。

船上の恐怖

疎開船は3隻。暁空丸と和浦丸、そして対馬丸。
それら3隻を守るため、護衛艦が2隻付いていた。

それは出発から翌日の夜の出来事だった。
突然、由紀子たちは救命胴衣を着せられ甲板に出るように言われた。アメリカの潜水艦が周囲にいるため、魚雷でやられるかもしれないというのだ。

そうして警戒している間に、由紀子が乗っていた船とは別の船、対馬丸が魚雷にやられた。

大きな音とともに火柱を上げた対馬丸はものすごい速さで沈没していこうとしていた。
怖くなった由紀子は「早く助けてあげて!」と近くにいた日本兵に言うと「だいじょうぶだよ。すぐに他の護衛船が助けにきてくれるはずだから」と聞き、少しだけ安心した。

しかし、他の船も敵に狙われている中で、護衛船が対馬丸の元へ救助しにくる事はなく、結局、対馬丸の乗船者約1800人のうち、児童779人を含む1476人が亡くなり、この対馬丸事件は今も広く戦争の悲劇のひとつとして語り継がれている。

由紀子の乗っていた船は運良く被弾をまぬがれたが、アメリカ軍からの攻撃の危険が続く中、残りのもう一隻と共に目的地の鹿児島を目指していた。
しかし、鹿児島湾も危険であるとのことで、長崎へと船は目指す。
到着まで残り1日となったその日の夜、暁空丸と和浦丸の2隻が衝突した。

甲板にいた由紀子はそのまま海に投げ出された。

薄暗闇の中、幸いなことに足が着く岩礁を見つけ、他に投げ出された人たちと共に胸の高さまで水に浸かりながらも、岩礁に立ちながら助けを待った。

「必ず助けが来るから我慢していてくれ」
その場に一緒にいた日本兵の言葉に励まされながら、半日ほどは海の上にいただろうか。日が明けた頃、他の船から日本兵の人々が救助しにきてくれ、由紀子はそうして長崎へと辿り着いた。


疎開先での生活

長崎に着くと、そこから熊本にある疎開先まで行く。

日奈久町という温泉街の旅館を宿に、15校940人の学童の共同生活が始まった。
日奈久での生活は非常に良い暮らしではあったが、空襲警報が鳴る頻度が増え始めると、学童たちは別々の疎開先へと移動した。それからの生活は大変だった。

次の移動先は田舎の学校のような場所で、そこでの生活はどうしても十分な食事を摂る事ができず、みんながみんな空腹と戦う生活だった。

男女ごとに別のテーブルに並んで食事をとるのだが、力の強い男子は、下級生の食事を奪い取る事が日常化していた。由紀子はそれが見ていられず「先生、あの子がまた上級生からご飯をとられているよ!」と訴える。

上級生からは「お前、告げ口したら叩きのめすぞ」と言われるが、怖いもの知らずだった由紀子は教師への告発をし続けたが、それでも体力の落ちた子などは病気で死んでしまうこともあった。

そんな疎開先で終戦を迎えるが、すぐに沖縄に帰れる状況とはいかず、働き手を戦争で失った近隣の農家などは、体の大きな疎開児童を子守や家事手伝いなどの働き手として引き取り、家族同様に可愛がられていた。
また、由紀子の姉も引き取り希望の人が多く、結局は由紀子を置いて父方の親戚の元へと行ってしまった。しかし、まだ小学3先生だった小さな由紀子を引き取ろうとする人はおらず、周りの疎開児童も少なくなっていった。しかし、大阪にいる母の兄弟が「由紀子の引き取り手がいない」という事を聞き駆けつけてきてくれ、一年ほどそこで大切に育てられるのだった。

また、沖縄に残っていた他の家族や親戚は戦争被害の少ないヤンバル地区へ逃げていたため、みんな無事であった。

その後、高校生になった由紀子はアメリカ軍基地の家庭でメイドとして働くなどしたが、僕の都合でこれ以上話をする時間が作れなかったため、戦後の生活のことはこれ以上はあまり詳しく聞けなかった。
このような中途半端な感じで申し訳ないが、由紀子の話はここで締めくくる。


あとがき

二人の祖母から話を聞いた後、僕はそれぞれにいくつかの質問をした。

日本軍やアメリカ軍の印象、天皇陛下や米軍基地についてどう思うかなどだ。別に僕はジャーナリストではないので、質問の内容を掘り下げようとしたり、質問に対する回答が噛み合わなかったりしても、訂正するわけでもなく、ただ話を聞いていただけなのだが、とりわけ印象的だった回答がある。


春子「日本兵は味方にでも銃口を向ける鬼のような人たちばかりだったけど、アメリカ人ほど良い人はいなかったよ。」

春子は捕虜施設では敵国であるアメリカ人から献身的な看護を受け、終戦後には養子にもなる寸前までいったこともあり、かなりアメリカ人に対しては好意的だったが、日本兵には行く先々で居場所を取り上げられた上に、子どもに銃を向けている姿が今でも目に焼きついており、印象はすこぶる悪い。



由紀子「日本の兵隊さんは立派だったと思う。アメリカさんは嫌われる人もいるけど…、いや、人によるね。アメリカも日本も関係ない。」

一方、由紀子は疎開船で何度も日本兵から励ましの言葉をもらっていたこともあり、好印象ではある。アメリカに関しては、米軍基地は良いものだと思わないが、国家や軍と、個人個人は別ものとして考えている。
自分が関わってきたきたアメリカ人は紳士的な人が多かったが、粗野な人がいたことも事実で、アメリカというものを一言で断言できる言葉が見つからず、回答に困っている様子だった。

お互いにそれぞれの戦争体験により、国や人への印象は当然様々なものになる。そして、誰が何にどういった印象を持っているかに関わらず、戦争なんて2度と起きるものでは無いという気持ちは二人とも共通しているのだった。

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