息ができない
2019年の8月、テネシー州メンフィスにあるロレイン・モーテルを訪れた。
そこは1968年4月4日、黒人清掃労働者のストライキを支援する為にこの地を訪れたキング牧師が兇弾に倒れた場所であり、公民権運動の歴史を伝える博物館でもある。
黒人がアフリカから奴隷として運ばれてきた奴隷船の船倉の展示や、キング牧師が狙撃された部屋、ローザ・パークスの「バス・ボイコット事件」当時の様子を再現したバスの模型など、迫力ある展示の数々は私の感情を強く揺さぶるものだった。
そこでは1963年8月に開催されたワシントン大行進の展示を見ながら、キング牧師ことマーティン・ルーサー・キングJrによる、かの有名な『I Have a Dream』のスピーチを聴く事ができる。
われわれは今日も明日も困難に直面するが、それでも私には夢がある。それは、アメリカの夢に深く根ざした夢である。
私には夢がある。それは、いつの日か、この国が立ち上がり、「すべての人間は平等に作られているということは、自明の真実であると考える」というこの国の信条を、真の意味で実現させるという夢である。
私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。
私には夢がある。それは、いつの日か、不正と抑圧の炎熱で焼けつかんばかりのミシシッピ州でさえ、自由と正義のオアシスに変身するという夢である。
私には夢がある。それは、いつの日か、私の4人の幼い子どもたちが、肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に住むという夢である。
今日、私には夢がある。
私には夢がある。それは、邪悪な人種差別主義者たちのいる、州権優位や連邦法実施拒否を主張する州知事のいるアラバマ州でさえも、いつの日か、そのアラバマでさえ、黒人の少年少女が白人の少年少女と兄弟姉妹として手をつなげるようになるという夢である。
今日、私には夢がある。
私には夢がある。それは、いつの日か、あらゆる谷が高められ、あらゆる丘と山は低められ、でこぼこした所は平らにならされ、曲がった道がまっすぐにされ、そして神の栄光が啓示され、生きとし生けるものがその栄光を共に見ることになるという夢である。
引用:アメリカンセンタージャパン 「私には夢がある」(1963年)
https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2368/
そのワシントン大行進の25年後の1988年8月27日に、周年を記念する大衆集会が開かれた。そこでキング牧師の妻であるコレッタ・スコット・キングは、キング牧師の「夢」がその当時にまだ実現していない事を憂い、以下の言葉を残した。
われわれには、依然として人種主義と差別の癌から国民を解放すべき夢がある。すべての人が愛と配慮につつまれて、兄弟姉妹として平等に暮らす夢がある。
引用:本田創造著『アメリカ黒人の歴史 新版』(1991年)
そこから更に32年経った今、その夢は叶ったと言えるだろうか。
その答えは勿論ノーだ。残念ながら未だ平等とは程遠い。
黒人家庭では、他の家庭には無い特殊なカリュキュラムが存在する。それは'’警官に呼び止められた時の対処法’'だ。(その動画を以下に貼っておく)
なぜなら彼ら黒人は対処を誤ると、正義の名の下に暴力を振るわれ、最悪の場合銃で撃ち殺されてしまう。例え何の罪を犯してなくても。
良き市民であろうとも、彼らは常に命の危機に晒され続けている。
そして先日、目を覆いたくなる映像が飛び込んできた。
5月25日、ミネソタ州ミネアポリスで起きたアメリカ・ミネソタ州白人警官による、黒人ジョージ・フロイド氏の殺害である。彼は紙幣偽造の疑いで白人警官に取り押さえられ、何度も「息ができない、助けてくれ」と訴えかけたにも関わらず、8分46秒も首を押さえ付けられ続け死亡した。
ご存知の通りこの事件は全米を揺るがす抗議デモに繋がり、今や世界中に広がりを見せている。非暴力で抗議する人々が大勢いる一方で、一部の暴徒化する人と抗議活動を力で弾圧しようとする警官隊により多くの血と涙が流れ、その様相は正に混乱を極めている。
今回のジョージ・フロイド氏の殺害は悲劇だが、それは決して珍しい事件では無かった。結果的にかつて無いほどの大規模な抗議運動に繋がったものの、この事件はあくまで切っ掛けに過ぎない。
これまで平等を謳いながら、抑圧され、同胞を大勢殺されてきた黒人たちの溜まりに溜まった怒りが、今回の事件を契機についに決壊してしまったのだ。
今回アメリカで起きている事は対岸の火事では無いと皆が言う。
実際「差別」という問題に関してはその通りだと思う。
ネットには中国系・韓国系の人に対する罵詈雑言が溢れているし、女性をモノとして見ている人は至る所にいるし、私が聴く音楽には未だLGBTに対する差別的な歌詞が私が散見される。
自分も気付いていないところで差別をしたり、それを助長する行動を取っているかもしれない。
差別はこの国においても確かに存在しており、それを無くす為の意思表示とアクションは必要な事だと思う。
しかし今私がここでアクションを起こしても、それは自分の身の回りに影響しうるものに過ぎず、映像の向こうで苦しむアメリカの人々にとって何の助けにもならない。
そういう意味では今アメリカで起きている事は、いくら手を伸ばそうとも、叫ぼうとも何も届かない、対岸の出来事なのだ。
アメリカが抱える差別問題を描く映画『アメリカンヒストリーX』で好きな台詞がある。それは白人至上主義に傾倒し遂には殺人罪で入獄した主人公デレクに、かつての恩師である黒人の校長が送る言葉だ。
私も君と同じように怒りを溜めて生きてきた。
若い頃、全てに腹を立てていた。私たち黒人に対する差別や侮辱、いわれのない苦しみに。
白人を恨み、神や社会を憎んだ。だが、いくら怒っても答えはでない。
怒りは君を幸せにしたか?
その言葉は映画を観ている者にも"怒りに身を任せても何も生まない、そこにあるのは悲劇だけだ"と訴えかける。
そしてそれと呼応するように、この映画のラストはこんな台詞で締め括られる。
怒りとは耐え難いほど重い荷物。
怒りに身をまかせるには人生は短すぎる。
私はこの映画の意図するメッセージに深く感銘を覚えたし、それが正しいと思っていた。
怒りや暴力は何の解決にもならないと。
でも今はもう分からなくなってしまった。
ジョージ・フロイド氏をはじめ理不尽に殺められた大勢の同胞の為に怒り、暴力に訴える黒人の人たちが間違っているなんて私に言える訳が無い。
アメリカの奴隷制度廃止運動における英雄の一人、ジョン・ブラウンはこう述べている。
私、ジョン・ブラウンは、罪深いこの国の罪業(奴隷制度)は流血によってのみ洗い極めることができるのだろうと、今こそはっきり確信している。
これまで、私は、多くの血を流すことなくそれができるだろうと考えて自分を慰めていたが、それは誤りだった。
引用:本田創造著『アメリカ黒人の歴史 新版』(1991年)
キング牧師のように非暴力に訴えかける指導者もいたが、アメリカの歴史を辿っていくと暴力による抵抗が黒人の権利獲得を後押ししたのは火を見るよりも明らかである。
怒りや暴力に身を任せる行動は時に必要な事なのかもしれない。
それでも映像の向こう側で大勢が血を流し、泣いているのを見ると、それが正しい行いと思う事もできない。
何が正しくて、何が間違っているか、私にはもう何も分からない。
無知で無力な自分が情けなくなる。
遥か遠く、海の向こうで愛する国が壊れかけている。
街は燃え、略奪や暴力が横行し、多くの血が流れている。
私は何もできずただそれを見ている。時に目を伏せながら。
署名をしたところで、情報を拡散したところで、その地で苦しんでいる人々にとって何の役にも立つ事ができない。
アメリカやアメリカのカルチャーが大好きだと宣っておきながら、SOULやBLUESやHIP HOPなど黒人発祥の音楽に沢山の生きる力を貰っておきながら、自分には何もできない。
それが今、とても辛い。
※ Oh freedom - 公民権運動の真っ只中、各地の大衆集会や示威行進で歌われた歌。
最後まで読んで頂きありがとうございます。