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人はなぜ”推す”のかについての仮説。『推し、燃ゆ』(宇佐美りん・河出書房新社)の感想

 この文章は、”誰かを推している人”にとってはかなり不快な内容かも知れませんので、各自ブラウザバック等ご対応ください。読んだ上での苦情は受け付けません(笑)。

 私は、10年ほど前から使われ始めた、”推す”という行為が全く理解できませんでした。というか、未だに共感を持って理解はできていません。2年前に芥川賞を受賞してかなり話題になったこの作品を読めば、それを少しは理解できるのではないかと思ったのがこの本を手に取った理由です。

 余談ですが、この本を買ったら、帯にこう書いてありました。

 確信犯なのかも知れませんが、この作品はどう転んでも青春を感じられるような楽しい小説では無いし、「推し」を持つ人が読んでも共感して愉快な気分になるどころか、多くの人がむしろ不快感しか抱かない思います(笑)

人が誰かを”推す”のは、「裏切られたくないから」

 いきなり結論から言ってしまいましたが、私がこの小説を読み、色々考えた結果出た答えがこれです。

本来愛してくれるはずの周囲に裏切られ続ける主人公

 この本の主人公は女子高校生で、作中で明確に書かれてはいませんが、何らかの発達障害を抱えています。このため、バイト先の定食屋でも同僚や客から度々攻撃的な言葉をかけられたり、両親や姉との間に自分だけ壁を感じたりするなど、いわゆる”生きづらさ”を日々感じています。

 主人公が周囲に向けて放つ言葉からは、「私も頑張っているのに、なぜ認めてくれない?」「なぜ私だけ愛されない?」というような悲痛な叫びが滲んでいます。

 つまり、彼女の周囲の人たちは、彼女が求めている「愛」や「承認」を全く与えてくれていない(ように感じる)のです。彼女は日常生活において、常に周囲の人に裏切られ、傷付き続けています。

見返りを求めない”推し”からは永遠に裏切られることが無い

 しかし、”推し”は違います。ファンは推しに対して、多くのものを求めません。ファンのためにインスタライブをやってくれること、コンサートをやってくれること、自分の投じた票が人気ランキングに反映されること。これだけで、「私達の求めるものを提供してくれた」とファンは大喜びします。期待通りの言葉や行動を示してくれない周囲の人とは違い、見返りを求めない推しからは永遠に裏切られることが無いのです。

 そして、推しの商業的成功を目的としているイベントや楽曲、映像作品に対しても、「日々の自分の推し活に対する見返りとして提供された」と確信犯的に誤解することによって、経済的な消費額が際限なくエスカレートしていくスパイラルに陥ります。

 これが、私の考える”推し”のビジネスモデルです。かつて老子は、「足るを知る」という言葉を残しました。つまり、自分が満足できる水準を下げることによって豊かさを実感するということです。推しが名誉欲・金銭欲のためにしているあらゆる活動を、自らの経済的消費の見返りとして、アクロバティックに無限の価値を見出してしまうその姿には、感服せずにはいられません

引退という”裏切り”

 この小説では、主人公の推しは暴力事件によって炎上し、紆余曲折を経て引退してしまいます。果たして、推しの引退はファンへの裏切りなのでしょうか。もうどれだけ推しても新たなコンテンツが提供されなくなり、推しの姿が映像作品の中でしか見られなくなっても、手持ちのグッズがただのインテリアになっても、決して怒らずに推しの今後を応援するのがファンの務めなのでしょうか。

 そこが、この小説の1つのテーマになっていると思います。日々の生活にハリを与え、生きる喜びを感じさせてくれた推しの引退をどう受け止めるのか。ただただ絶望するしかないのか。絶望を乗り越えて次の推しを見つけるのか。もしくは、その絶望すら推しが与えてくれたものとして崇めるのか

 物語冒頭の主人公のセリフが重かったです。

「推しは命にかかわるからね」

『推し、燃ゆ』単行本版6ページ

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