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エッセイ | 自分を救うための処世術

YouTubeを見ていると『モーニングルーティーン』として自分の生活を紹介している動画をよく見かける。モーニングだけでなく、1日の生活を紹介している動画もある。それを見ていると、どの人も生活を最適化して過ごしているのが分かる。私自身も自分に合わせた生活を目指し最適化しているため、これが共通のことなのだと分かり安心していた。

ただ、私たちが生きていく中では最適化できないもの、イレギュラーなものが発生する。そういった時に、自分自身がどのように対応しているかを考えてみると、どうも私はため込んでいってしまう傾向にある。

・自分のために何かを買う

最近見ているドラマに「日曜の夜ぐらいは...」というものがある。このドラマの中でヤングケアラーの主人公とその母親が『煮詰まった時にはコンビニの一番高いアイスクリームを食べる』という処世術を行なっている。これを見たときに、私はなんか良いなと思ってしまった。

自分自身はそういった処世術は持っていないため、一番高いアイスクリームを食べることでリセットする行為は手軽でもあるし実践もしやすい。その上、そういった自分をコントロールするような術を持っているというのがカッコいいと思った。

また、6月28日に発売された小林私メジャーデビューアルバム「象形に裁つ」の収録曲である「花も咲かない束の間に」の中で『改札機が立ち塞がる日にはドーナッツでも買おうかしら』という歌詞がある。解釈の仕方は正しいのか分からないが、改札を通過しようとしてもICカードが上手く反応せずに出られなかった時は、塞がることのない穴のあるドーナッツを食べて埋め合わせをしようとしているのだと思った。

これも処世術の一つなのではないかと思うとひかれてしまう。

・自分自身の処世術

自分自身の処世術は願掛けに近い行為なのかもしれない。自分を慰める行為であったり、できなかったことを別の行為で補填するような。それであれば私自身にも処世術があるのかもしれない。自分では気付いていないけれど、はたから見れば意味がよく分からない行為があるかもしれない。

私は省エネで過ごしていきたいため、生活の仕方をかなり限定的にしている。決まった毎日を繰り返している。そんな中で嫌なことが続いたりすると『踏み出す脚を左足に変える』ということをやっている。普段なんとなく歩いていると右脚から踏み出すのだが、嫌な流れを断ち切るために別の脚で踏み出す。これで何かが変わるかは分からないが「嫌な道からは外れたから大丈夫だ」と言い聞かせて歩いている。

アイスを食べたり、ドーナッツを食べたりするように、自分自身に楽しみがあるわけではないから詰まらないことなのだが、少しでも普段と違う行動をすれば違う自分になれるのではないかと少しだけ思っている。

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