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「武道ガールズ」 8 一歩目

8 一歩目

 はじめの一歩を踏み出すのに、どうしてこんなにためらうのだろう。前に進みたいのは自分なのに、どうしてわざわざ自分で自分にブレーキをかけようとするのだろう。

 春の嵐は、今が盛りの花花を無慈悲に奪い取り、泥と土に帰していった。雨は勢いをなくしながら三日続いた。細く冷たい雨は、しとしとと音を吸いながら世界を浄化し、教室の窓からは桜色が消えた。

 仙道さくらは、ノートの下に隠した合気道のチラシを見つめ、小さくため息をついた。女性が男性を投げ飛ばす大きな写真の下に、本部道場、無料体験の案内がある。運命の出会いとときめいたものの、この三日間なにも出来ずにいた。まずは今週末、本部道場の無料体験にいってみようと思ってはいるが、一人で行くのにはためらいがあった。一緒に行こうと誘う友達も思いあたらない。ヒナコだったら、もしかしたら一緒に行ってくれるかもしれないが、あの娘のテンションには、あまりこちらから積極的に関わりたくはなかった。一人で行ってもいいものか、女子高生は他にもいるのか、いきなり行っていいものなのか。

 教壇では英語教師のエミリーが、生徒一人一人に語りかけるように、ネイティブの発音を繰り返している。一回では聞き取れないので、同じフレーズを速度を変えて繰り返し語りかける。
「It's often difficult to take the first step.If you are…I say, Just do it! or,You can do it! or, Go for it!」
 よく分からないけど、なんか励まされているようだ。やればできる、とか、がんばれとか、そんな感じだろう。頭では分かるのだけれど、あまり響いてはこない。だれかもっと強く、背中を押してくれればいいのに。

 サヤカの舞いと、ジョーの投げ技が脳裏をよぎる。
 分かってる。サヤカに話しかけるんだ。彼女なら色々知っているはずだ。ジョーとも知り合いのようだったし、小さい子からも慕われていた。もしかしたら一緒に行こうって誘ってくれるかもしれない。この三日間何度か声をかけようとしたものの、サヤカの人を寄せ付けない空気に、踏み込んでいけなかった。クラスは違うものの、話しかけるチャンスは何度かあった。けれど、廊下ですれ違うとき、こっちがじーっと見つめても、向こうは見てもくれなかった。軽く微笑んで会釈しても、こっちを見てるのか見てないのか、まるで気づかれなかった。
「あ、あの」
 と軽く手をあげて、声をかけてさえ、気づいてももらえなかった。
 なんとかサヤカに話しかけようと、一定の距離を保ち、サヤカを観察した。サヤカは一人でいることが多かった。昨日は卓球部の体験入部で、テニス部の時と同じように先輩をこてんばんに攻撃していた。今日もこれからバスケ部の体験入部に参加するようだ。

 部活が始まる前に、今日こそはしっかり声をかけようと、ドキドキしてサヤカに近づいていったそのとき、後ろからトントンと肩をたたかれた。
「ひゃっ」
 と肩をすくめ、恐る恐る振り返ると、ヒナコの人差し指がほっぺたに食い込んだ。
「次はバスケ?」
 ヒナコはさくらのほっぺたをグリグリしながらニコニコして言った。
「一緒にやろう」
「いやいやいやいや、私は、違うの、バスケありえない」
「いやいやいやいやって、お前は稲川淳二か」 
「だれ?」
「ってか、お前はストーカーか?」
「?」
「高遠サヤカの追っかけか?」
「えっ?」
「体験の方はこちらでーす」
 バスケ部員に誘導される。
「はい。ほら、行くよ」
「いやいやいやいや」

 テニス部の時と同じように、サヤカは事も無げにドリブルシュートを決め、ヒナコは元気いっぱいコートを走り回り、さくらはダブルドリブルとトラベリングを繰り返した。小柄ぽっちゃりなくせに、ヒナコのジャンプ力には先輩達も目を丸くし、「動けるぽっちゃり」「飛ぶぽっちゃり」として注目を集めた。
 新入生対上級生の練習試合は、サヤカの独壇場だった。サヤカはボールを持つと、誰にもパスをださず、一人でゴールを決めた。
「パス、パス、パース」と大声で自己主張するヒナコを気にもかけず、ドリブルしたまま右に左にくるくると回転し、巧みに相手をかわす。
「きれいなロールターン。経験者っぽいね」
 ベンチではキャプテンの水島美優が、感嘆の声をあげる。
「にしても、ちょっとやられすぎでしょ」
 と、ふいに首にかけていたホイッスルを吹く。
「メンバーチェンジ。8番アウト。私イン」
 水島は自ら選手交代を告げコートに入る。コートの二年生達が走って水島の元に集まる。
「なーに、新入生に翻弄されちゃってんの。あの子は絶対にパスをださない。軽く囲んでみ」
 水島が余裕の笑顔を見せると、二年生達もほっと笑顔となる。水島はコートに入るなりスリーポイントシュートを決め、一瞬で流れを変えた。
「きたな、ボスキャラ・・・」
 サヤカは獲物をロックオンしたかのように水島に挑戦的に微笑むと、左右交互にゆっくりとボールをバウンドさせながら前進した。
「さて、ここまでこれるかな」
 水島はゴール前でディフェンスポジションに入る。さくらが所在なげにぼーっと隣にたっている。
 1番と2番がサヤカのマークにつく。
「パス! パス!」
 両手を広げてパスを求めるヒナコを無視し、ゆっくりとした動きから、サヤカが急に重心を落としスピードをあげたとき、3番が前に立ちはだかった。反射的にターンすると、4番がボールに手を伸ばした。すんでのところでサヤカがかわす。
「一対四・・・」さくらがつぶやく。
「一対四・・・」水島は腕を組んで見つめる。
「一対四・・・」サヤカがニヤリと笑う。
 道場で四人の男達に囲まれる姿が一瞬サヤカの脳裏をよぎる。 
「多人数取り。いいねー」
 その場でボールをつきながら、サヤカは静かな笑みを浮かべ、目を閉じた。
 集中。
 ボムボムと、ボールが弾む音。サヤカを囲む四人のシューズがキュキュッと音を立てながらポジションを変えていく。
 集中。
 目を閉じて、動きを感じる。
 1番が距離をぐっとつめてくる。その後ろに2番。斜め右に3番、後ろに4番。
 スーッと細く目を開き、サヤカは動じるどころか、むしろ一段落ち着いてボールをキープした。前に行くと見せかけて後ろに回転する。ゆったりとした動きから急にスピードをあげる。時に自分の股の間でボールスイッチしながらドリブルを続ける。左右のフェイク、上下のフェイク、ターン、まるでボールが手に吸い付いているかのように緩急自在に動く。そうして何度か突破するものの、すぐにカバーが入り前には進めない。
「いいキープ力だ」
 水島がさくらに話しかける。
「だいぶ場馴れしてる。目がいい」
「目がいいというか、カンがいいんですかね。動きをよんでるみたい」
「カン? よんでる? よまれてる?」
 水島はサヤカを見つめる。
「あと、あのクルクルと回転する動き、あれって…」
 しだれ桜の下で右に左に回転するサヤカの姿が重なる。
「パス、パス、パース! 私どフリー!」
 ヒナコがジャンプして訴える。
「私は強い」
 心の中でつぶやきながら、サヤカが一瞬ヒナコを見る。サヤカの視線を意識し、1番もチラッとヒナコを見る。
「ってか誘ってる? あの子、わざと?」
 水島は急に楽しくなったように笑みを浮かべながら、ソロソロと前にでた。
 いよいよ四人に詰められ、サヤカはキビキビと周囲を見渡す。さくらと目があった。
「私?」
 ビビるさくらに、サヤカは小さく頷き、目で「走れ」と言った。
「え? 私?」
 戸惑うさくらに構わず、サヤカは今度はヒナコに強い視線をぶつける。
「ん? よし、こい」
 と、ヒナコは右に左に上に下にと動き回り、パスのもらえるスペースを作った。
「ハイ!」
 ボール一個分のパススペースができた一瞬、ヒナコは合図を送る。
 そのタイミングを逃さず、サヤカはヒナコにパスをだす。ディフェンス二人がヒナコを追う。
「フェイク!」ふいに水島が走り出す。
 ボールはまだサヤカの手にある。
 サヤカのアイコンタクトにさくらがどんくさく動いた瞬間、矢のようなパスがさくらに飛ぶ。
 さらにディフェンス二人が振り回される。
「それもフェイク!」
 ボールはまだサヤカの手にあった。四人のディフェンスを完全に振り切り、サヤカがスリーポイントシュートを打つと思った瞬間、水島が目の前に立ちはだかり、ボールを奪った。
「スリーポイントにはちょっと遠いね。それにバスケは五対五。一対五じゃないよ」
 水島がスッとパスをだすと、1番、2番、3番、4番とパスをつなぎ、あっという間にゴールが決まった。

「あんたさー、ちょっとはパスだしてよ。私、一人でぴょんぴょんしてばかみたいじゃない」とヒナコ。
「パ、パス、くるかと思った」とさくら。
 相手チームがゴールを決めるのをしれっと見ながら、サヤカはつぶやく。
「一対五か。間違えた。一瞬、一対四だと思った」
「ちょっと私の話し聞いてた? バスケは五対五。一対五じゃな」
 水島の言葉を遮り、サヤカは誰に言うでもなく声をだす。
「あー、やっぱ私チームプレイむいてないわ。一対五のほうがよっぽど」
 サヤカの言葉を遮り、ヒナコが言う。
「さくらもさー、ぼーっと突っ立ってるだけじゃだめよ。両手広げて、自分からもらいに行かなきゃ。待ってたってだめ。なんでもそう。自分から行け。一歩踏み出せ」
「自分から、一歩・・・」
 さくらは自分の両足を見つめる。
「聞きたいことあるんだったら自分から行け。ほら、今チャンスだ」
「今?」
 ホイッスルが鳴り、ゲームが動く。チームメイトの一年生二人がこちらをチラチラ見ながらも二人でボールを運ぶ。
「今! いつだっていいから行け。Just do it! You can do it! Go for it! 」
 ヒナコはあたかもNBA選手かのように、流暢なネイティブ発音と大げさなジェスチャーで、さくらの背中をバンとたたいた。
 思わず一歩前にでた。やっと一歩前にでた。
 サヤカと対峙する。
「あ、あの、合気道」
「は?」
「合気道、行きたいんですけど、体験、本部道場? ご存知でしたら」
「今聞く?」
「いや、私バスケなんて実はどうでもよくて、高遠さんに合気道のこと聞きたくて」
「だから今? 聞く?」
 動きの止まった三人を視界の隅に気にしつつも、練習試合は続いている。
「バスケなんて実はどうでもよくて?」水島が苦笑する。
「行けばいいんじゃない?」サヤカは素っ気なく返す。
「あ、あの、一人でも大丈夫ですか?」
「なんで?」
「あ、予約とかした方がいいのかな?」
「そう思うなら、すればいいんじゃない?」
「あの、高遠さんも、そこにいるとか、あ、この間、合気道の子供やおばさんと話してたから」
「私はいない」
「あ、あの、一緒に・・・」
 精一杯の勇気をふりしぼる。
「一緒に、一緒に行きませんか?」
 サヤカは首を傾げ、理解できないといった表情でさくらを一蹴した。
「ムリ。行かない」
 にべもない拒絶に、さくらはガクンとうなだれた。
「オーマイガッ、オーマイガッ」
 とヒナコがさくらの背中をバンバンとたたく。
「痛い!!」
 さくらは怒りのこもった涙目でヒナコを睨む。
「もう一歩!」とヒナコ。
「いや、もういい」
「ここでもう一歩!」
「いやいやいやいや、ムリムリムリムリ。もういい」
 さらに背中をたたこうとするヒナコの腕をさくらはぎゅっと握った。
「もういいって言ってるでしょ!」
 腕をぎゅっと握ったまま、涙目でヒナコを睨む。
 一年生からあっさりとボールを奪い、水島がゆっくりとドリブルをして三人に近づく。
「はーい、いつまでおしゃべりしてるのかなー?」
 水島は三人の間をぬうようにゆっくりとドリブルする。
「試合中ってわかってるのかなー?」
 水島を一瞬だけ視界の端にいれ、さくらとヒナコはにらみ合いを続ける。
「本当じれったいなあ。言いたいことあるならちゃんと言いなよ。そんな目で私を睨んで、手首をギューギュー締め付けて、で、あんたは何が言いたいの? 何がしたいの? 言葉にしなきゃ分かんないよ。何も伝わらないよ。言いたいことあるなら言えよ」
「いい。言わない」
「えーっと、私が言いたいのは」
 水島が口を挟もうとするが、
「あなたじゃない!」
 とヒナコは続ける。
「あー、もー、言いたいこと言わないで、やりたいことやらないで、何が人生だ。何が青春だ。やってみて嫌ならやめればいいじゃん。なぜためらうのか意味わからん」
 サヤカはしれっと、冷めた目で二人を見ている。
「なんなの。あなたはいいね。うらやましい。思ったことそのまま言えて。こないだも、今日も、ろくに話したこともない私なんかに『一緒にやろう』って。そんなにストレートに、真っ直ぐに言えて。本当うらやましい。だけど、だからって、みんなあなたと同じじゃないよ」
「そんなの当たり前じゃん。私は私。あんたはあんた。みんなあんたみたいだったら、地球は滅亡するわ。さくらに出来ないことを、私は出来るかもしれない。だけど私にできないことをさくらは出来るかもしれない」
 言葉がでてこない。
 さくらは黙ってヒナコをにらみ続ける。
 言葉がでてこない。
「ねえ、手、痛いよ。結構握力あるじゃん。」
 さくらは力をこめていた手をハッとはなした。
 ヒナコは今度はさくらの背中に優しく手をおいた。
「もう一歩」
 軽く押された背中の手の優しい感触に、思わず一歩前に出る。
「あ」
 ヒナコが優しくうなづく。
 さくらはサヤカと対峙し、
「あの、私のこと嫌いですか?」
「はい?」とサヤカ。
「はい?」とヒナコ。
「私のこと避けてますよね?」
「いや、避けてるというか、特に何も」
「じゃあ、パス。パスください」
「は?」
「パス!!」
 さくらが大きな声をだした。
「パスって、私ボール持ってないし」
「いいから、パス!!」
「だから試合中だって言ってるのが」
 あきれたようにドリブルを続ける水島のボールを、サヤカがふいに奪い、さくらにポイッと渡した。
「えっ?」
「パスしたよ」
 自分で要求しながら、いざパスを受けるとさくらは固まった。
「よし、いけ、シュートだ」
 ヒナコが片手を大きく上に伸ばし、ゴールを指差す。
「えっ、あ」
 さくらは背中を丸め、ボールだけを見てボムボムとボールを弾ませる。
「足をだせ、前へ進め。ゴールへ向かえ」
 周りは見えない。敵も味方も分からない。どこがゴールかも分からない。ただボールだけを見て、前へ進む。
 ボム、ボム、ボム、ボム。
「下を向かない。ちゃんと前見て」
 ヒナコの声にボールを一度持ち直し、ゴールの位置を確かめ、再びボールを弾ませる。
 ホイッスルを吹こうとする水島を、ヒナコが押しのけ、
「よし、シュート!」
 と叫んだ。
 さくらはボールを抱え、一歩、二歩と進むが、ゴールにはまだ遠い。
「もう一歩」
 三歩。
「もう一歩」
 四歩。
「シュート」
 そうしてゴールに向かって弱々しく投げたボールは、力なくリングにあたり、ポーンとはずんで、ネットに吸い込まれた。
 ヒナコが両手を天に突き上げる。
「ナイッシュー!! ナイス一歩!!ナイス前進!!」
 ヒナコがさくらの背中をバンバンと強く叩いた。

 水島がいよいよ観念したようにホイッスルをならし、さくらを指差す。
 さくらが、私? と首を傾げる。
「そう、そこのバスケなんて実はどうでもいいあなた」
 水島はお腹の前で両手の拳をぐるぐると回し、大声で叫んだ。
「トラベリング!!」
 そして、間髪入れず両手をバタバタとし、
「あと、タブルドリブル!!」
 さらに強くホイッスルを吹き、体育館の出口を指差す。
「退場!!」

 はじめの1歩を踏み出すのに、どうしてこんなにためらうのだろう。どうしてわざわざ自分でブレーキをかけようとするのだろう。
「It's often difficult to take the first step.If you are…I say, Just do it! or,You can do it! or, Go for it!」
「最初の一歩を踏み出すのは概して難しい。進め。踏み出せ。まず一歩。前へ。前へ」
 今日の英語の授業は多分、そんな内容だった。英語教師のエミリーも私の背中を押してくれていたのかもしれない。

 ボールを持ったまま三歩以上歩いてはいけないなんて、バスケはなんて不自由なスポーツなんだ。
「あの、笹岡さん」
 やっと一歩踏み出せたんだ。
「ん? ヒナコでいいよ」
 トラベリング上等。勇み足上等。
 だけど今大切なのは、私の背中を押してくれた、目の前の彼女へのもう一歩だ。
「ヒナコさん」
 自分から行くんだ。
 自分で言わなきゃ。
 言葉にするんだ。
 さくらはヒナコの目をまっすぐに見つめて言った。
「合気道、一緒にやろう」

ほんの少しでも笑顔になっていただけたら幸いです。