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「いいからやれ!」 ピアノマン1 実家のピアノ「ソナチネ」

実家のピアノ「ソナチネ」

 実家にはピアノがある。古い赤茶色のアップライトピアノ。オレが幼稚園の頃からあったので、少なくとも40年以上は経つ年代物だ。どうやってピアノを運んだのかも全く憶えていないが、四度の引っ越しを経、子供達が家を出た後も半世紀近く、そのピアノは実家のリビングの片隅にいる。

 千葉県外房の実家には、 80歳を越えた父と母が二人で暮らしており、年に何回か様子見がてら顔をだす。孫が小さい頃は親戚一同が実家に集まることもよくあったが、さすがに孫も中学生や高校生となり、実家に行きたがらなくなった。それでも、正月と夏休みと、あと何か用事があれば、車を一時間程運転し、家族皆で実家に行く。

 実家に帰り、少し落ち着くと、妻と母はお茶を飲みながら近況報告のおしゃべりをし、子供たちはゲームをするか、スマホをいじりはじめる。手持ち無沙汰になったオレは、ピアノのフタをあけ、音を鳴らす。

 音が大きい。 響く。ピアノの音って、こんなにうるさかったっけ?

 妻と二人の息子は露骨に嫌な顔をする。
「うるさい!!」と言いたいのが伝わってくる。

 ところが、そのピアノを80歳の母はベタぼめするのだ。
「あーもったいない、ピアノ習わせておけばよかった。この子は絶対音感あるから、ちょっと聞いただけで何でも弾けるのよねー」

 いやいやいやいや、絶対音感、絶対ないし。

 何でも弾けるどころか、最後まで弾ける曲、一曲もないし。あ、「ネコ踏んじゃった」は最後まで弾けるな。

 80歳を越え、ボケてしまって言っているのではない。十年前も同じことを言っていたから。もっと前からずっと言ってるから。

 妻も息子も、そこは突っ込まない。オレの実家だから、言いにくいことはわざわざ口にせず、「また始まった」としれーっと目配せをする。

 でも、まあ、そこそこは弾けるんだよ。「エリーゼのために」とか「悲愴」とか。最後までは弾けないけど、サビだけ、ちょっとだけ。

 少し昔話を。
 オレが幼稚園の頃だから、1970年代、もう40年以上も前の話しだ。
 当時の記憶はほとんどないのだが、六畳二間程度の狭い社宅に、両親と姉と弟、家族五人で暮らしていた。布団を敷くのも窮屈な和室に、なんとも似つかわしくない赤茶色に輝くアップライトピアノがあった。スペース的にも音量的にも、どうだったのだろう。今では絶対にありえない。まさに時代が違うのだ。

 三歳年上の姉がピアノを習っていたが、オレ自身は習ったことはない。小さい頃から、オレは家にいることが好きで、外に出て新たな世界に踏み込むという「習い事」の類はとても苦手だったし、抵抗した。
 ただ、ヤマハ音楽教室に行ったことはある。自転車の後ろにオレを乗せ、市の中心まで自転車をこぐ母もさぞ大変だっただろう。今のように電動自転車なんてあるわけがない。パンク寸前のぼろぼろママチャリだ。
 習い事嫌いのオレの抵抗と、母の気力体力面から、ヤマハ音楽教室は二回か、三回ほど行ってやめた。
 ただ、その数回の音楽教室で、幼稚園児のオレは和音を知った。

 ドーミーソー
 レーファーラー
 シーレーソー

 と歌う。
 そのときに歌った和音が、コードだと知るのはそれから十年以上経って、自分ではじめてギターを買ったときだ。

 姉の練習するピアノで、なぜかソナチネだけが耳に残っている。
 ソナチネというのは楽曲の形式のことだから、それこそ星の数ほどあるのだけれど、ソナチネと聞いてオレが思い浮かぶのは二曲だけだ。

 ソナチネの1番 「クーラウのソナチネ 作品20の1」。

 モーツァルトの「ソナタ K545」。

 きっとたくさんの曲を練習したのだろうが、楽譜の一番最初に出てくるクーラウのソナチネだけがやけに強く印象に残っている。

 ドーミーソー ソソソ ソードーミーードドーシー

 ピアノを習ったことはなかったけれど、なぜか高校生のときに、そのフレーズを弾きたくなって、昔の楽譜をひっぱりだして練習した。
 左手で、
 ドソミソドソミソ
  と繰り返す。

 そこで挫折した。

 そのときのピアノはこんな音じゃなかったなあ。 
 やけにうるさく響く実家のピアノで、「ソナチネ」の最初のフレーズを弾いてみる。

 妻と息子だけでなく、弾いているオレ自身でさえ、これはうるさいだろと思う。
 聞くと、最近調律してもらったらしい。
 どんな楽器屋に、いくら払ったのかとか、細かいことは聞かなかった。

 年に数回も弾かない、もしかしたら誰も弾かないピアノの調律を依頼したという母。

 耳が少し遠くなった母にもクリアに聞こえるように、調律師は大きめの響く音で、調整したのだろうか。

 だったらこの音で弾いてみるか。
 妻と息子がたまらず部屋をでていくほど、大きくキンキンと響く音だけれど。

 母に聞かせたいんだな。
 50歳の息子が、80歳の母に、聞いて欲しいんだな。
 下手なピアノを、ばかみたいにほめてくれるのは、世界で一人しかいないのかもしれないな。

 何を今さら昔話をしているのだろう。
 こんな文章書いている暇があったら、
 いいから弾け! オレ!

 そうだ、今日は久しぶりにソナチネを弾いてみよう。
 ドーミーソー ソソソ
 って、最初のちょっとしか弾けないけれど。

 いいからやれ!
 いいから弾け!

ほんの少しでも笑顔になっていただけたら幸いです。