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そもそも海外に住むことになったきっかけ

私が海外に出たのは、「親が連れ出してくれた」からだ。

13歳の時、父がアメリカ転勤になった。確信犯だった。私と兄を海外に連れて行きたかったらしい。私はそれまで、東京の平和な郊外で育った、ごく普通の女の子だった。もともと非常にシャイで、母親や兄の陰に隠れていた内弁慶。母は「こんなにぼーっとした子で将来大丈夫かしら」と心配していたらしい。

私はといえば、外の世界を知らないのだから幸せだった。小学校では地味な生徒で得に楽しかった記憶がないが、中学校では友人に恵まれ楽しい日々だった。どの先輩がかっこいいだの、目が合っただの、誰と誰が付き合っているだの、そんな話ばかりしていた。まだボンタンを履いた不良がいて、髪の毛の色が変わって学校に来なくなってしまう同級生の女の子がいたりして・・・「多様性」に富んだ公立校ライフを思いっきりエンジョイしていた。

そして、中学校2年生の1学期終了後、アメリカへ。そこで、全てが変わった。


そのショックは、何と言い表せばいいだろう。学校に行っても、みんなが話している言葉がわからない。英語が話せない日本人やアジア人の子供が多い現地校だったので、何の新鮮味もなくて、アメリカ人のクラスメイトは「また来たか」と一瞥もしない。日本の中学校ではたくさんの友達に囲まれて過ごしていたのに、友達がいない。日本人とつるめば、さらにバカにされる。バカにされなくても、惨めな気持ちになる。

毎日お昼ご飯や休憩の時間が嫌いだった。誰かと一緒にご飯を食べられるのか、はたまた一人ならば人目につかないところで食べられるだろうか・・・休憩の間話す相手はいるだろうか・・・そんなことばかり考えていた。

だから、かっこいいクラスメイトたちが眩しくて仕方がなかった。スポーツが得意で青い目が美しいディートと、丸っこくて小さくて、愛らしさが際立っていたエブリンのカップル。その友達で長いウェービーな髪を揺らしながら、細身のジーンズが完璧に似合うマリア。そして、韓国人だけれども完全にその中に溶け込んでいたサンドラ。30年経った今でも、彼らのことを聡明に思い出せる。

私は、10代後半から20代半ばまで、少し紫がかった暗めの赤色リップをよく買っていた。当時はペンシルタイプが流行っていて、私は自然とその少し暗い色みに惹かれてつけていた。でも、何年も経ってから、どうも自分に似合っていないことに気づいた。なぜこの色が好きなのだろうかと考えたら、ある時、理解した。

これは、サンドラの唇の色だと。

現地校ではすでにお化粧をしていた子たちがいて、サンドラもそうだった。長いふわっとした黒髪に、韓国人特有の切れ長の目。口元は、いつも少し紫がかった暗い色みのリップをしていた。それが、彼女を余計にクールに見せてとてもよく似合っていた。

私が現地校に通っていたのは2年間だけれども、前回も書いた通り、まさに「暗黒の青春」だった。当時のアメリカ人の同級生に私のことを聞いても、100人中5人も覚えていないのではないかと思う。覚えていたとしても、きっと名前はわからないだろう。それくらい、私は存在していなかった。

私の海外生活は、そんな風に始まった。幸いだったのは、アメリカの文化や英語は好きだったこと。次回、また色々と思い出して書いてみようと思う。


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