いつも君がしていること

家族のために毎日買い物に行き、メニューを決め、一日三食作り続けている彼女は、誰かが自分のために料理してくれたものなんてもう何年も口にしたことがない。最後にそういう食事をしたのはいつだろうと、ぼんやり考えている。すぐには思い出せないくらい遠い昔だ。もちろん、レストランでオーダーすれば料理人たちが腕を振るってくれるけれど、それは厳密に言えば顔の見えないひとりの客のためであって、例えばこんな味付けは好きだろうか、セロリが苦手だったな、などと彼女のことだけを考えながら料理するわけではない。そういう意味で、彼は今、本当に彼女のためだけに鰹節を削っている。今どき鰹節を削って使うこと自体、とても珍しいことだった。子供の頃に母親の手伝いで削ったことはあったし、だから鰹節削り器の存在も知っているが、長らく予め削ってある袋入りのものしか使っていない。誰だってそうでしょう? それだけでもう、自分が特別な存在だという気がする。
これでも飲んでて、と差し出された缶ビールに口をつけて、彼女は訊ねる。
「なにを作ってくれるの」

「さて、なんでしょう」と、彼は秘密めかして笑い、「和食だよ」

「それはそうでしょう。鰹節削ってるもの」

今どきの若い娘なら、鰹節削り器そのものに反応して「なにそれー」などと燥いでみせるだろうか。今更そんな芝居が出来るほど、彼女の心は強靭ではない。
鍋に鰹節が投入されるとすぐに出汁の匂いがわきたって、換気扇に吸い込まれてしまうのがもったいないくらいだ。

「これはね、この前鹿児島の友だちが送ってくれたんだ。枕崎の本枯れだって」

「そうなの」

「おかげで削り器を通販で買わなきゃならなかった。まさか僕だって、毎日鰹節を削ったりしないよ」

コンロは三口あって、奥のふたつには出汁の鍋と蒸し器が乗っていたが、残りのひとつに彼は土鍋を乗せて火をつける。

「土鍋で炊くの」と、彼女は訊ねる。

「炊飯器がないからね」

「凄いわね。あたしだったらとても無理。きっとすぐに焦がしてしまうわ」

毎日の家事の合間に米の火加減まで気にしてはいられない。そう言おうとして、止める。日常の彼女の姿を想像して欲しくはなかった。

「慣れだよ。それに、鍋の方が早いんだ」

彼はそんなふうに言いながら、溶いた卵を漉して茶碗に注いでいる。彼女が毎朝、味噌汁の味噌を溶く時に使っているような目の細かい金属製の網を使って。そこに出汁を計り入れ、鶏肉、椎茸、三つ葉と銀杏。それから、

「銀杏は好き」と、訊ねる。

「もちろん。茶碗蒸しなのね」

「そう」

やがて米の炊ける匂いもたち始めて、彼の手際は普段から料理をしている人のそれだった。彼女はリビングのソファーから立ち上がり、キッチンの入り口でその手元を覗き込む。小さな嫉妬の感情が芽生えたが、それについては深く考えないことにする。彼はハマグリを洗って出汁の鍋に入れ、塩と酒、少量の砂糖で味つけをして醤油をひと垂らし。続いて蒸し器を火にかけ、出来上がった吸い物の鍋は下ろして代わりにフライパンを乗せ、錦糸卵を作るようだ。

「あんまり見るなよ。適当だから恥ずかしい」

「そんなことない。あたしよりずっと手際がいいみたい」と、彼女は正直に笑う。

「君はだって、毎日のことでしょ」

とてもかなわない、という彼の言葉に、彼女は少し動揺する。確かに毎日、食事を作っている。けれど、今の彼ほど幸せそうにキッチンに立っているわけではなかった。最近の彼女は特に。

「もうすぐに出来るからね」

そうして彼は喉を鳴らしてビールを飲み、土鍋の火を確認してから、

「美味しいワインも買ってあるんだ」と、言う。

「いいわね」
「今日はゆっくりしていけるの」
「そうね」
七時が限界だろうか、と彼女は時間配分を計算しながら思う。あと三時間。

「よかった」と、微笑む彼は、いつもと変わらず今この時だけを楽しもうとしているように見える。

程なく米が炊き上がると、蒸らしている間に彼はビールを飲み干し、オープナーを使って白ワインを開けた。そうして徐に、盛大に湯気を上げるご飯を大皿に移し、昆布で出汁をとって用意してあった寿司酢と煮穴子、甘辛く炊いた椎茸と人参を混ぜ合わせていく。混ぜながら、

「ごめん、これでちょっと扇いでくれないかな」と、彼女に手渡されたのは、昨年の秋にふたりで出かけた音楽イベントのうちわだ。すでに懐かしい。けれど彼には、そんな感慨もないのかもしれない。過去も未来もない、今この時だけが繰り返されていく。
彼女の送る風のなかで、艶やかに光るちらし寿司が出来上がる。仕上げに錦糸卵と海苔をのせ、茶碗蒸しの具合を確認して彼は満足げに頷いた。

「さぁ、食べよう。ワインには合わないけど」と、ハマグリのお吸い物に三つ葉を散らして申し訳なさそうに笑う。「まぁ、ひな祭りだからね」
身のふっくらした大きなハマグリだ。

「もうそんな歳じゃないよ」

彼女もその笑いに同調しようとするけれど、どうやら、口を開けたその貞淑な二枚貝が晒しているのは笑えないなにかだったようだ。ちらし寿司も茶碗蒸しもとてもいい出来だったけれど、味よりもむしろ、うまく笑えなかったその時の感情を、彼女はいつか、家族のために食事の支度をしながらふと、唐突に思い出していたたまれなくなるかもしれない。


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