守られている女


尾行を開始して三日、これまでのところ特に変わった様子はみられない。彼女は毎朝決まった時間に地下鉄で出社し、ほとんど残業はせずに退社、再び地下鉄を使い、駅前のスーパーに寄って帰宅する。昨日は一昨日を、今日は昨日をコピーして貼り付けたような一日。違っているのは、昼に自分で作った弁当を食べる場所くらいのものだ。一昨日は会社の近くの公園で、昨日は川沿いの遊歩道のベンチ、そして今日は外出した形跡がなかったからおそらく、社内で食べたのだろう。屋上かもしれない。セキュリティの厳しい自社ビルでそれを確認する術はないが、一度偽名で電話をかけて呼びだしてもらうと、彼女は間違いなく社内にいる様子だった。それで十分だろう。いつものようにスーパーに立ち寄り、ひき肉と牛乳、いくつかの野菜を買った彼女がワンルームのマンションに帰り、数時間後に部屋の明かりが消えるのを確認してから私は、その日の仕事を終えた。彼女が尾行に気づいていて、今頃そっと部屋を脱け出しているという可能性もなくはないが、そこは割り切るしかない。ひとりで24時間働き続けることはできない。電話で報告すると、

「ですが、尾行の目的は警護ですよ。何者かが部屋に侵入するってことだって」
そう依頼人は言うのだが、

「彼女は部屋に入ると必ず施錠するし、チェーンロックまでかけています」

それで納得してもらうしかなかった。


四日目の彼女は少し違っている。いつものローヒールのパンプスではなくスニーカーを履き、タイトなデニムに水玉のワンピースを重ね着している。鞄ではなくリュックサックを肩にかけ、明らかに仕事に行く服装ではなかったし、家を出る時間も若干遅めだ。実際、マンションの前からもう駅とは反対の方向に歩き始めた。コンビニエンスストアの角を曲がり、小学校の前を足早に通り過ぎ、大通りに出るとバス停がある。バスに同乗して尾行するのは少々やっかいだから出来れば避けたかったのだが、彼女はもう、ちょうどやって来たバスに手を上げている。まずいことに、他に乗車する客もいなかった。迷っている余裕はない。そこでドラマのように都合よく空車のタクシーが通りかかるとも思えず、私は意を決して彼女の後に続いた。幸い、彼女はほどほどに混みあっている車内を後方に移動していて、うっかり目を合わせてしまうような失態を演じずに済んだ。私は運転手の斜め左後方に立ったまま、彼女の姿を目で追い続ける。


正直なところ、彼女はストーカーに狙われるようなタイプには見えなかった。もちろんそのような決めつけは禁物だし、どんな人間だろうが絶対に誰にもつきまとわれたりしないなどということはない。けれどなんというか、少なくとも、容易に好意を持たれるような雰囲気ではなかった。私はまだ、一度も彼女の笑顔を見ていない。公園で弁当を食べている時にひとりで笑みを浮かべていたらそれはそれで気味が悪いが、同僚に挨拶する時も、スーパーのレジで金を払う時も、彼女はまるで無表情なのだ。もったいない、とは思う。彼女の笑顔が見てみたい、そんな気になる男がいても不思議ではないと、納得しかけたところで彼女が降車ボタンを押すのが見えた。私はゆっくりと吊り革を伝って降車扉の近くまで移動し、バスが停まると彼女の三人後に車を降りた。


そこは大きな病院のある上下四車線の街道沿いで、あるいは誰かの見舞いだろうかと想像するが、彼女はその脇の道を住宅街の方に歩いていく。もっとも危険な状況だった。平日の午前中に、住民以外の人間が歩いていたらとても目立つ。そんな道で中年の男が若い女の後をつけるのは、ほとんど見つけてくださいと言っているようなものだ。逮捕されてもおかしくはない。駐車場の看板の陰から次に彼女が曲がる路地を確認する。彼女の姿が見えなくなってからそこまで走り、塀の角に隠れて次の道筋を見極める。そんなふうにいくつかの道を曲がって彼女がたどり着いたのは、いったいどこだ。そう、私はしくじったのだ。彼女が最後に曲がった道の先には、両側におおよそ二十件あまりのこぢんまりとしたよく似た住宅が並んでいて、彼女の姿はどこにもなかった。突き当たりの大通りまで一気に駆け抜けた可能性は考えづらい。おそらく、この住宅街の一件を訪ねたに違いなかった。

実家だろうか。友人、親戚、恋人、いったい誰を訪ねたのだ。せめて実家の住所くらい知っておくべきだった。ともあれ、彼女を見失った道でいつまでもうろうろしているわけにはいかない。さっきバスを降りた道の反対側にあるバス停で、彼女が無事に戻ってくるのを祈りながら待つほかない。もっとも、帰りも同じ路線のバスを利用するという保証はどこにもなかった。

街路樹の新緑が美しい季節だったが、それを楽しむ余裕もなく、長い時間と何台ものバスが目の前を通り過ぎていった。そんな車の流れの向こう側に、依頼人の姿を見つけたのは偶然だろうか。もちろんそんなはずはなかった。嫌な予感がする。彼もまた同じ住宅街へ歩いていく。私は足早に横断歩道まで戻り、道を渡ろうとするけれど信号はずっと赤のままだ。何が起こっているのか、あるいは起ころうとしているのか、考えても答えはすぐには見つからなかった。


重要参考人として任同を求められたのは翌日のことで、私はもちろん否認し、無精髭が態とらしい中堅どころの刑事にことの経緯を話して聞かせた。もとより、私に依頼人を殺害する動機はない。
「お前、彼女のストーカーだったんだろう。それを咎められて、逆恨みしたんじゃないのか」
彼女の証言によれば、ずっと後をつけてる男がいるから気をつけろと、被害者からそう電話で教えられたのだという。

「事件当日、自分が何とかするから気づかない振りで家まで来るように言われたと」
「そんなバカな」
「現場付近での目撃証言もあるんだよ」と、詰め寄る刑事に私は、彼女を見失った間抜けな事実を話した。
「らしいな。本当に後をつけてる男がいて、このまま彼のところに行ったらなにか良くないことが起こるんじゃないかと、怖くなって逃げ出したと彼女も言ってるよ」
逃げこんだコンビニの防犯カメラにもその姿が写っているらしい。
「彼女だ。あの娘を調べた方がいい」
「もちろん調べてるさ。なにしろ第一発見者だし、元恋人だ。しかし残念ながら、決定的な物証は何も出てこない。被害者の血がついたお前の名刺以外はな」
動機は何だ。彼はストーカーを雇ってまで彼女との復縁を画策し、彼女はそれを利用して彼を殺害する。ふたりはかつて、どんな別れ方をしたのだろう。知りたいことは他にもあった。彼女は今、笑っているだろうか。

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