コロナ禍が私に与えた影響

私は、7年前に会社を辞めた。お金を回すために膨大な資源をゴミにして環境を破壊して人が疲弊するような暮らしから逃げたくて、4年前に田舎に移住した。消費を減らし、自給率を高め、「お金が要らない」とは言わないまでも「金はなくとも豊かな暮らし」に少しずつ近づいてきた。

そんな中、コロナ禍がやってきた。

2月下旬、イベント自粛が呼びかけられ、SNSではイベント中止のお知らせが相次いだ。出店を予定していたイベントが中止になって寂しい思いをしていたが、家計を圧迫するというわけではないので、大きな問題ではなかった。

続いて休校要請。もともと「学校は行っても行かなくてもどちらでもいい」と考えている我が家には、たいした影響はなかった。むしろ、子供が家にいることで普段よりも楽しい日々を過ごせた。

4月になって、状況が変わってきた。以前京都に住んでいたころにお世話になったライブハウスや飲食店の悲鳴が聞こえてきた。テイクアウト、プリペイド、本業外の物販、クラウドファウンディング、などでなんとか凌ごうとしている。

これらのお店では、2月末頃から「不要不急の外出自粛」によって収入が激減している。そろそろ資金が尽きてもおかしくない。気になって連絡を取ってみると、「4月を乗り切るために金策に走り回っている」とのこと。

プリペイドチケットなどを購入したが、お金の流れから逃げている私がたいした金額を出せるはずもなく、、、「休業補償(粗利補償)してくれよ!」と考えるようになった。

いわゆる「アベノマスク」を知ったのが、この頃。腹が立ったし、不思議だった。そんな金があるなら、今お金に困っている人に配って欲しい、と思った。

同時に、「本当に自粛すべきなのか?」と疑問を持つようになった。今更「封じ込め」は不可能だろう。集団免疫を獲得するまで、感染は拡大する。ならば、重症化リスクの高い人を徹底的に守ることに注力して、重症化リスクが低い人は出歩いて経済を動かすべきではないだろうか?そうしないと、経済的に死に追いやられる人が出てくる。失業率と自殺率はリンクする。

総理の「お家で踊ろう」を見たのは、この頃。理解に苦しんだ。ミュージシャンの端くれとしても、腹が立った。追い討ちをかけるように、国会議員のセクキャバ騒動。国会もリアリティなしか、とますます暗い気分になった。

そして、困窮世帯への30万円配布に替わって全国民に10万円の一律配布、緊急事態宣言の全国への拡大。目の前が真っ暗になった気分だった。文句を言う気力も湧かない。私への10万円だけでも、なんとか必要な人に届けたいと思った。

この頃から、SNSで「今は国民が一致団結するとき、批判ばっかりするな、やるべきことをやれ」という趣旨の投稿をよく見るようになった。苛立った。

苛立った原因のひとつは、この現象に恐ろしさを感じたことだ。悪意なき同調圧力。批判を封じられた民主主義ほど怖いものはない。

しかし、原因はそれだけではなかった。「批判ばっかりでやるべきことをやってない自分」に気付かされたのだ。

何故、何もしていないのだろうか?

一晩ほど落ち着いて考えてみて、やっとわかった。簡単なことだ。自分にできることが、わからなかったのだ。

今、そしてこれから、困っている人に必要なのは「お金」だ。お金がないことで人が死ぬ。お金ごときのために。しかし、お金から逃げた私には、お金がない。お金を回すすべもない。

数万円のポケットマネーをお世話になったお店のために使うことはできる。しかし、困っているのは休業店舗の経営者だけではない。バイトや日雇いがなくなって明日食べることにも困る人、ネカフェ難民、ホームレス。。。今の日本には間違いなく「貧困層」があり、その人たちが真っ先に危機に陥る。

海外に目を向ければさらに深刻。アパレル企業への輸出が8割を閉めるバングラディシュでは、受注が途絶え、工場で賃金未払いが発生し、都市封鎖中にも関わらず労働者が座り込みの抗議行動をしているという。

衣服という生活必需品で繋がっていながら、お花見を自粛する日本人と、餓死を恐れて座り込みをするバングラディシュ人。ちょっと考えてちょっと調べると、嫌でも世界のアンバランスさに気付かされる。

知り合いにいくばくかの支援をすることはできても、このアンバランスな世界で新型コロナウィルスの影響で苦しむ人たちのためにできることといえば、せいぜい、一律給付される10万円を寄付することぐらい。

私は本当に無力だ。そして、批判をすることで「何かやった気分」になっていた。それを指摘され、苛立ったのだ。

この自分の心の動きに気づくと、とてもすっきりした。頭が動き始めた。今自分にできることを考え始めた。とりあえず、共感を得られそうな友人に「何かできることないかな」と発信を始めた。まだ具現化していないが、アイデアもいくつか生まれてきた。


私は、お金を回すために膨大な資源をゴミにして環境を破壊して人が疲弊するような社会が嫌いだ。皆が、お金を稼いで使うためではなく、本当に生産性の高い経済活動をして、資源消費や環境破壊が鈍化する、世の中がそんな風になればいいと思っている。子供たちの世代には、そんな社会を継ぎたい。

しかし、今世の中にお金(が回ること)が必要だということは、別問題だと思っている。回っているお金が急に減速すると、多くの人が死ぬ。それは、お世話になったあの人、かもしれないのだ。そんなことを望んでいるわけではない。

コロナ禍で空気がきれいになったという記事を目にする。理屈はわかるが、怖くて読む気になれない。綺麗な空気の下で、人がいっぱい死ぬのだ。人間も自然の一部、人間の数が減った方が種としては良いのかもしれない、などと考えたこともあるが、実際にはとてもじゃないがそんな風に割り切れない。

私は「人の命は大事」という常識からは、逃れられそうもない。なので、今はとにかくお金を回すことを考える。「何かできることないかな」と周囲に発信する。そして、皆でコロナ禍を乗り切って、私が望むような社会になっていくことを夢見る。


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