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エッセイを読んでもらう意味とは

「誰かに読んでもらうための文章」ってどういうものなんでしょう?

最近、日記やエッセイをこういったnoteとかブログにあげるとはどういった意味があるのか?と考えていました。

他の人の日記を読むのは、何が面白いんでしょう?
小説は、小説家が読者を楽しませるために作り出した世界です。面白ければ面白いほど、読者は「読む意味」を見出せると思います。

でもエッセイは、言ってしまえば個人による、個人的な体験、それを経て個人が思ったこと等が主です。
言うなれば、私の独り言を垂れ流ししているようなもんじゃないのか?それってわざわざオンラインで、ブログとかnoteとかで、人に読んでもらう価値あるの?
芸能人でもないのに?なんで私はnoteで文章を書いてるの?

と思考のドツボというか、完全にネガティブな方向にハマっていってました。
私には飛び抜けた文章力はないし、人間性に興味を持ってもらえるような有名人でもない、ただの一般人です。

「今日こんなことがあって、こう思った」なんて大勢の人に言っても、「へーそうなんだ」で終わるでしょう。いや返事が来れば良い方で、たいていは「いやお前誰だよ」だし、見向きもされないと思います。

ここ最近、noteに何か書こうと思っても「これ読みたい人おるんか?」「別に面白いこと書くわけでもないし」「読みたい人とかおらんやろ」「そう言われればそんな書きたいものでもないし」と、ネガティブ思考を循環させ、挙句の果てには「なんでも(どうでも)いーや」と、投げやりになってしまいました。

数字、昨今で言えば「いいね!」が取れないと意味ないんだろうなと、自分や自分の書く文章、また趣味で文章を書くことへの一種の諦めが、私の頭を埋めつくしていたときです。

「人に読んでもらうための文章を、まずは趣味でたくさん書いてみること」

この言葉に出会いました。

「人に読んでもらうための文章」とは何?
それっていったいどういうものなんでしょう?

ここで冒頭の問いに戻ったわけです。

この言葉を自分なりに理解したくて、私が「好き!」と思っている、趣味で文章を書いている方のnoteをたくさん読みました。

その人たちの書く文章は、私が書くものと何が違うんだろうか?
たくさん読んで、ある時突然、自分なりの答えを見つけ出しました。

私と、その人たちの文章の決定的な違い。
いろいろありましたが、一番は
「読んでくれる人に、ちゃんと話しかけている文章かどうか」
でした。

読者に常に「どう思います?」と聞いているわけではありません。
でもその人たちは、まるで家族や恋人、友達に「聞いて聞いて、今日こんなことがあってね、私こう思ったんだ」と話しかけているようだ、と感じました。

もちろん役に立つ情報を盛り込んで、読者の為になる記事を書いている方だったり、ずっと毎日投稿を続けている方だったり、「読まれる」要素は他にもたくさんありました。
ですが「読者に話しかける意識」は、今の私は全く持っていないもので、なおかつ私は
「これが欠けていたらエッセイをわざわざ載せる意味は無いよね」とも気付いたのです。
だって独り言なら、SNSに書かなくても、ノートにシャーペンで十分ですから。そうでしょう?

「人に読んでもらうための文章」って、別に「自分の言いたいことを我慢して、人が欲しがっている言葉だけ書きましょう」って意味ではないと思ったんです。ただ目の前に、恋人や家族、友達がいるかのように、いつもの雑談をするように、今日あったことを話すように書く。
少なくとも今の私が書きたい文章はそういう文章です。

私が(特に最近)書いてきたnoteは、あまりにも独り言すぎたなぁ、と思いました。横に、前に、画面の向こうに誰かいるなんて考えもしなかった。
誰かに聞いて欲しがっているのに、誰の目も見てないんじゃ仕様がないですね。これは大きな気付きでした。

他にもエッセイを書く意味についていろいろ考えていましたが、それはまた別の機会に書きたいと思います。

エッセイを書く、また読む意味って、何だと思いますか?
書く人も読む人も、「自分はどうして書いているのか」「なぜ人の書いた文章を読むのか」考えてみると面白いんじゃないかと思います。

ではおやすみなさい。

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