戸塚校長を見ていたら、教員を辞めようと思った瞬間がフラッシュバックした
先日、久々にABEMA primeに出演した戸塚ヨットスクール校長:戸塚宏氏の動画が公開されていたので、1時間以上にもわたるアベプラにしてはかなり長尺の動画だったのだが、最初から最後まで丸ごと視聴した。
動画の内容は……まあ相変わらずのアベプラ×戸塚校長と言った感じのまとまらない議論でいたずらに時間が過ぎていく物だった。
これまで戸塚校長は僕の知る限り、今度の動画含め4度アベプラに出演しているのだがそのどれもが似たり寄ったりの感じで
戸塚氏「体罰は善、リベラルは悪。教育に必要な体罰をリベラルが潰している」
出演者「でも戸塚さんはそれで人を殺してますよね。それは良いんですか?」
戸塚氏「またその話か! それしか言えんのかお前らリベラルは!」
もう延々これ。戸塚氏は自分を否定するものすべてを「リベラル」だとして聞く耳を持たないし、出演者側は戸塚氏が何を言っても「人を殺しちゃいけないよね、傷つけちゃいけないよね」というスタンスで話が全く進まない。
ただまあ、そんな内容を4回も繰り返すということはそれだけ戸塚校長自身が引きのある存在であり、この不毛なやり取りも需要があるということなのだろう。
実際、僕もこの不毛なやり取りは嫌いじゃない……むしろ大好物です。
おふざけは置いといて。
僕自身教育に関する問題は、小屋暮らしを始めるまで7年間公立小学校の教員をやっていただけあって関心の深い問題なのだが……今回戸塚宏氏が番組内で嘆きともとれるような持論を展開しているのを見て、僕はついつい涙をこぼしてしまいそうになった。
というのも、僕自身教育現場において「リベラル的理想の教育」と「教育現場の現実」とのギャップに非常に苦しめられ、振り回され、その結果現場を退いた経緯があったからだ。
戸塚宏氏のような「現実に言うことを聞かない生徒を、どうにかするためには体罰するしかない」という現場的意見もしくは行動が、ただただ「リベラル的な、現場の実感を伴わない理想論」に潰されているという構図を僕はよく知っている。
もちろん、教職員時代に体罰をしたことは1度も無い。しかし、だからこそ「言うことを聞かない子ども」に対してどう関わればいいのかということには常に苦悩してきた。
そして、苦悩の末「こうするしかない」として行ったことを「それは間違っている」として非難された。
そうして僕は打つ手を失った。だから教員を辞めたのである。
今回は、僕が教員を辞めるに至ったその経緯をお話しし、それを通して少しでも多くの人に現職の教員の方々が抱えているであろう理想と現実のギャップによる苦しさが伝わればと思う。
「教員を辞めよう」となった瞬間
まずは、僕自身が教育の理想と現場の余りの剥離に絶望し、教員を辞めるに至ったその出来事をお話ししたいと思う。
当時僕が担当していたクラスには、非常に活動的で、活発で元気……端的に言えば「やんちゃ」な児童が一人いた。
詳しい話は守秘義務的にあまりできないのだが、その子はかなり短気で、自分の思うようにいかないことがあると友達に手を出してしまうということが頻繁にあった。
もう昔のことで記憶も虚ろなのだが、掃除道具がこれじゃヤダとか、遊びで負けたとか、それぐらいの不満で人を叩いたりつねったりしてしまう子だったと思う。
僕はその子が友達に手を出してしまう度、1対1で時間を取り、「嫌なことが合っても手を出してはいけない」「人を傷つけたら、嫌われて友達がいなくなってしまうこともある」「自分がされて嫌なことは友達にもしない」等々言って聞かせた。
「こういうことだったなら、次からこうすればいいじゃないか」「まずは言葉で伝えてみてはどうか」などと解決策を提案してみたりもした。
その口調が厳しいものになってしまったこともあった。何度も繰り返し同じようなことをその子がしてしまうものだから、僕自身イライラしてしまっていたのも確かだ。
しかし、それでもやはりその子を叩くだとか、閉じ込めるだとか、どんな小さなことでも罰を与えるだとか、そんなことは現実の現場では許されない。
だから、いけないことはいけないと伝えたり、何とかその子がイライラしなくなるような環境を作ったり、周りの子にも協力を求めたり……その程度のことしか他にやりようが無いのが現場の実情なのである。
さて、そんなある日の授業後、翌日の授業準備やその他事務作業に追われていた僕の元に1本の電話が入った。
それは、その子の親からだった。
「うちの子が泣いて『先生に怒られるから学校に行きたくない』って言ってるんです。こんなの初めてです。去年までの先生はこんなことありませんでした。ちょっとやりすぎなのではないですか?」
僕は叫びたいのを必死で押さえていた。だから会話の内容は全然覚えていない。たぶん謝罪していたのだと思う。
これだけがきっかけではないのだが、こんなことがもうずっと繰り返されてきて嫌気がさして、僕は教員を辞めたのだった。
現場を知らない保護者と、現場職員との「理想と現実のギャップ」は埋まらない
学校現場では、保護者からのクレームは基本入ってしまった時点で「アウト」だ。
もちろん事情を話したり理解を求めたりすることもあるのだが、基本的には教員の「申し訳ありませんでした。以後このようなことにならないよう指導の方法を改めます」で終わる。
だから、教員は皆「保護者からのクレームが入らないよう気を付けている」。そのために子供への関わり方にかなりの部分ブレーキが入ってしまっている。
その結果、ほとんどの教員は思い切った指導ができない。「本当はこうしたいのに」「こうあるべきなのに」と思っていても、それを表には出さずに「保護者からのクレームが入らない範囲」でおためごかし的に日々学級運営をせざるを得ないのが実情だ。それが多くの教員が苦しむ要因なのではないかと思う。
そんな中には「誰からも文句の余地のない、理想的な教育」の方向に傾倒し、そこに自己を見出す教員もいる。
もちろんそのような、少し意地の悪い言葉だが「意識の高い」教員が出てくること自体は問題ではない。むしろ良いことだろう。
だが真の問題は、そのような「理想的教育」を実現できるのは本当に一握りのカリスマ的教員だけで、それなのに世間に取り沙汰されて「これぞ学校現場の姿」として推し出されるのがそのような「ごく一握りの学級」であることだ。そしてそれこそが、保護者と現場教員のギャップが埋まらない要因なのではないかと思う。
理想的教育は言う。「教員が指導するのでなく、子ども一人一人が自主的に学びに向かい、教員はそのお手伝いをすればいいのだ。そのための環境・人間関係作りが大事なのだ」と。
そりゃあ、その通りだろう。もしそれが実現できるのなら教員は叱らなくていいし、説教しなくていいし、子どものやりたいことをただ見守っていればいいことになる。そこにはイライラしている教員なんていないし、泣き出す子どもも、友達を叩く子どももいない……。
馬鹿じゃないの? と素直に思う。
そんなんを理想として推し出しているから、教員は授業参観の度にビクビクしなくてはならないのではないか?
「子供が喧嘩しだしたらどうしよう」「いつも席を立ってどっか行ってしまうあの子をどうしたら」「子供が変なこと言い出しても否定しちゃダメなんだよね」とか、訳の分からないことになるのではないか。
そして、そんな超気合の入ったきれいな「授業参観用授業」を見せられた保護者は、ますます学校現場という者を勘違いしてしまうのではないか。
そして子どもが泣いて「学校に行きたくない」と言った瞬間保護者はこう思うのである。「こんなのはあるべき姿じゃない、先生が間違っている」などと。
「現場・実情を見ない理想論によるバッシング」は戸塚宏氏をより悲劇的モンスターにした
戸塚宏氏は言う。「テレビで理想論ばっかり言う奴らに、体罰の必要性が分かるはずがない」
これは心からの言葉なのではないかと思う。
数多のどうしようもない生徒を見てきたからこその実感、そして現場を知らない者達からのバッシングを誰より多く受けてきたという経験から出た叫びだ。
もちろん、今現在学校現場で苦しんでいる教員たちと戸塚宏氏を同一視することはしない。するべきではないだろう。
しかしそれでも僕が言いたいのは、現場の実情も分からず「理想と違う」「こうあるべきではない」からと言って現場で戦っている者達に対して冷たい言葉を浴びせたりバッシングしたりすることは、新たなるモンスターを産むことにしかならないのではないかということなのだ。
戸塚宏氏はかなり極端な例だが、学校現場が「理想の教育」を押し付けられかつ「クレームが来ないよう」振舞うことは、その異常性を高めていくことにしかならないのではないかという確信が僕にはある。
いじめ隠蔽を例とした学校現場の隠匿体質はその最たる例だろう。昨今の教員におけるメンタル不調の増加、採用倍率の低下なども、学校現場がどんどん「異常地帯」化していることを示している。
それでも未だに学校現場に残って奮闘している現職教員の方々が、一体どれだけの苦労とストレスの中に晒されているのか……想像するだけで僕は頭の下がる思いだ。
戸塚宏氏は確かに人の話を聞かない。意見が凝り固まり過ぎて、少し意見を言うだけで「お前はリベラルだ! 馬鹿だ! 何もやれんくせに物を言うな!」とヒステリックになり議論などできる状態ではない。
しかし、そのようなモンスターは決してプリミティブ(原始的)に生まれたのではない。メディアバッシングを始めとした現場の苦労など分かろうともしない世間の心無い声に、絶えず晒された結果生まれた悲しきモンスターなのだと、どうか分かってほしいと僕は思う。
そういう意味で、何度も出演させてその度バッシングの雨に戸塚氏を晒すアベプラの姿勢は、当時のメディアの在り方と何ら変わってはいないのだなぁともはや諦観の思いである。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?