「ラベル付け」によっては何も解決せず、より差別構造が深刻化するだけという確信 シリーズ「弱者男性はどこへ往く」第4章
これまで僕は「弱者男性」について散々語ってきた。
近年こういう考え方が広まっている。
「最近は『弱者男性』に対する認知が広まって来て、あと何年か後には『弱者男性』に対する差別も無くなっていくのではないか」
これはつまり、社会において新たに「弱者男性」というラベルができることによって、弱者男性もまた人権の庇護下にあずかることになり、そして救われるはずだという思考の流れなのだと思う。
しかし、僕はこのような考え方を全く歓迎していない。むしろそのような考えが蔓延してきていることに危機感さえ感じている。
なぜか。それは人権下における「ラベル付けによる恩恵措置」は、何一つ差別構造の改善にはつながらず、むしろ差別構造を深刻化してしまう悪魔の所業であると考えているためである。
今回は、これまで人権下社会が散々行ってきた「特定の属性にラベル付けして恩恵を与える」という方法に対して、なぜ僕は差別構造を深刻化させてしまう行為であると確信しているのか、述べていく。
「ラベル付け」は能力差を考慮しない
ある特定の属性をラベル付けするという行為は、その属性集団内の能力差を全く考慮することなく行われる。
しかし、このラベル付け行為こそが更に深刻な差別構造を生んでしまう。
なぜならそれぞれラベル付けされた人々の中においても、能力差における弱者・強者がまた存在しているからである。
ここではややこしくなるため、能力の多寡による弱者・強者のことを「能力弱者」「能力強者」と呼称することにする。
「ラベル付け」されてなお弱者である能力弱者は、「正当な差別」というより深刻な差別を受ける
例えば僕はこれまで、「女性」とは「人権下における恩恵措置を受けるべき性」としてラベリングされていると述べてきた。しかし当然「女性」の中にも「能力弱者」「能力強者」が存在しているはずなのである。
にもかかわらず、一律に「女性」に対しての恩恵措置が与えられてしまうことにより、女性の中の「能力弱者」が「もう十分恩恵措置を女性は受けているんだから、未だにお前が弱者なのはお前自身の努力不足のせいだろ」という扱いを受けてしまうことになるのである。
……んんん? どこかで聞いたようなフレーズではないか。
そう、これは弱者男性が受けている「男性は旧社会において優遇されている存在だったんだから、今お前が弱者なのはお前自身の努力不足のせいだろ」という人権下社会からの冷たい扱いそのままなのである。
つまり、人権下でのラベリング行為とは以下のような流れで無限に差別構造を深刻化してしまう悪魔の所業であると言えるのだ。
この差別構造深刻化の真に恐ろしいところは、差別という物が「より少数で、より能力の低い物」に対しての物へと移行していく点である。
一見ラベル付けすることによる恩恵措置の行使は、「弱者」の数を減らして世界を平等にすることに役立っているように感じてしまう。しかしその実情は、より「弱者」の数を凝縮し、先鋭化することによって、この世界における「弱者と強者」のバランスをより極端な形で取ろうとする行為であると言えるのである。
「弱者男性」のラベル化は「弱者弱者男性」を生むだけ
僕が「何年か後には弱者男性も救済対象になるのでは」という理論に賛同できない理由がここにある。
決して「弱者男性」を、人権下において「恩恵措置を受けるべき対象」としてラベリングするようなことはあってはならない。その先に待っているのが更なる弱者、つまり「『弱者男性』の中でも更に能力の低い存在である『弱者弱者男性』」を生み出すだけだというのは火を見るよりも明らかだからだ。
「お前は『弱者男性』として優遇されているんだから、今お前が苦しんでいるのはお前が努力していないからだ」と言われる地獄のような世界だ。
一体どうしてそんなことになってしまうのか。それは以前言ったように「人権」が能力差別を是としているからだ。
どれだけラベリング付けして「人権は弱者を不当な差別から救う!」と誤魔化そうとも、最終的に「恩恵措置を受けてなお弱者である奴を救う必要はないよね、それは本人の能力不足だよね」という「能力弱者に対する差別は正当である」というより深刻な差別構造に行きついてしまうことは避けようが無いのである。
故に、弱者男性は救われない。
何度でも言わせてほしい、弱者男性は救われないのだ。
「人権下における恩恵措置から取りこぼれた存在の原始である」という僕の定義における弱者男性は、いくら人権下社会が「『弱者男性』も不当な差別を受けている弱者だから救うべきだ!」などと世迷言をのたまおうと救われることはない。
そのことをいい加減、人権下社会は自覚してほしいものである。
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