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理屈的に穴だらけな「親ガチャ」という言葉が流行る理由

「親ガチャ」という言葉が不快だ。


僕は彼女いない歴=年齢の童貞30代で当然子どももおらず、今後も親の立場になどなれそうもない。

僕自身は中流もしくはそれ以上ぐらいの家庭に生まれ、3人兄弟で贅沢ができるわけでもないがそこまで家庭面での不足感があった訳でも無く、かといって家庭円満かというとどこの家庭でもありふれているだろうと思える程度には不和のある環境で育ち、「親」に対する認識・価値観としては良くも悪くも中立だと思っている(「親」に対して自己を「中立」としている時点でそれはもはやマイナスなのではないかと言うのはひとまず置いといて)。

それゆえ、自己判断としては自分は「親ガチャ」という言葉に関しても中立で、使っても違和感が無いぐらいの立場にいると感じているのだが……。

死んでも「親ガチャハズレた」などと言おうとは思わない。そのぐらいの不快感を僕は「親ガチャ」という言葉に対して抱いている。

別に「親を尊敬すべきだ!」とか「生まれは関係ない、自己責任だ!」とかを言いたいわけじゃない。

僕が親ガチャに抱く嫌悪感、それは「親ガチャ」という言葉自体が余りにも理屈的に脆い……と言うよりも嘘やごまかしだらけの、虚構に虚構を重ねた上で自己の欲望を何とか満たそうとする「虚無ケーキ」とでも言えばいいのか、そんな言葉だという僕自身の認識に起因している。

「親ガチャ」などという言葉は、思慮分別の付いていない、「この世界のどこかに自分があるべき理想郷が存在する」という妄想から脱出しきれてないお子様の言語でしかない。

今回の記事では「親ガチャ」という言葉がいかに誤った認識のもと扱われる概念であり、人生と向き合う上での害悪であるのかついて書いていきたいと思う。

そもそも「ガチャ」じゃない

まずは「親ガチャ」という言葉の定義を確認しておきたい。

僕の大好きなネット番組「ABEMA prime」←ちゅっちゅ♥ の特集の中で「親ガチャ」が取り上げられた際には、このような定義がなされていた。

「どんな親の元に生まれてくるかは自分で選べない運次第である」と言うことを”ガチャ”になぞらえた言葉

ABEMA prime:【親ガチャ】「努力したら成功できる時点で運がいい」生まれた環境でその後の人生が決まる?安易な言葉遣いに危機感も?日本の格差を考える 

「自分で選べない」「運しだい」という2点において「どの親に生まれるか」と「ガチャ」が共通するので、いわば「親」というのをガチャでいう「カプセルの中身」としているのが「親ガチャ」ということになるのだろう。

より詳細なイメージとしては、この場合における「ガチャ」とは駄菓子屋やスーパーにあるようなアナログハンドルで回す「ガチャガチャ」「ガシャポン」よりはスマホゲーム、いわゆる「ソシャゲ」における「キャラガチャ」「アイテムガチャ」の方に近い気がする。

「うちの親はSSR」などといって「親ガチャランク」を付けるような例えがあることからもそれは読み取れる。


では、この「親ガチャ」という言葉にある決定的な誤りとは何か。

それは「自分の意思で行えず、1回きりで代えの効かない」という特徴を持つ「親」と「自分の意思で行い、何回でもやり直すことのできる」という特徴の「ガチャカプセルの中身」とを同列に扱って組み合わせてしまっている所にある。


まずもって、ガチャと言うのは絶対的に自分の意思をもって行う物である。

縄で縛りつけられて「ガチャを回さなければ親を殺すぞ!」とでも脅されない限りは、「自分のやる・やらない意思関係なくやらされるガチャ」などという物は存在しないだろう。そんな物はガチャとは言えない。
(ソシャゲのチュートリアルガチャなんかはほぼほぼ強制的な場合も多いが、チュートリアルガチャはレア度や出るキャラが固定されている物なので厳密にはガチャとは言わないだろう)

自分の意思を持って行う物だからこそ、やってもやらなくてもいいのが「ガチャ」である。

なので、例えば本当に「親ガチャ」という物が生まれる前の魂の前に置かれていたのだとしても、それをやるやらないは魂の自由であるはずなのだ。

つまり「親ガチャ」という言葉をもし肯定するのならば、それは同時に「親ガチャをやらずに生まれてこなかった魂」の存在もまた肯定しなくてはならない。

「親ガチャハズレた!」と嘆く人は
「でも勝手に親ガチャ引いて生まれてきたのはお前(の魂)だろ。自己責任じゃん」という言葉も甘んじて受け入れなくてはならない。

お分かりいただけただろうか。何かがおかしいのだ。


そして、ガチャの最大の特徴は「ハズレを引いても何度でも再トライすることができる」点だ。

ソシャゲのガチャにしろスーパーのガシャポンにしろ、だいたいガチャを行う際には「この品が欲しい」「最低でもこのぐらいのレア度が欲しい」という自分にとっての目標をもっているものだ。

そして何度も何度もハズレを引いて、最終的に自分にとっての目当ての品が出て初めてガチャを終了するというのが一つの工程だとするならば、結局のところ「財力に物を言わせて目的の物を手に入れる」のがガチャの本質ということになるだろう。

ここに「親ガチャ」のいう「どの親に生まれるかは運しだい」という定義とのズレが生じてくるのである。

もちろん、ガチャをやる人の中には一回ガチャを回して「あ~これが出ちゃったか~、でもまあいっか!」として「1回きりの運任せのガチャ」を実践する者もいるだろう。しかしそれはその人にとって「ガチャ」自体が「どの品が出ても別にかまわない物」であったり「欲しいものが出るも出ないも、その運試しを楽しむ物」であったりするからこそ成り立つのである。

これもまた、「自分の親はハズレだから駄目」だとか「親ガチャやらされる人生はクソ」だとか言う「親ガチャ」という言葉を使う者の真意からは外れた解釈になるだろう。

つまり、これまた「生まれる前の魂の前に置かれた”親ガチャ”」の例で言うのならば、

「親ガチャハズレた!」と嘆く人は
どの親に生まれるかは運次第ではなく、お前自身(の魂)の財力(この場合前世の徳とか?)次第だったんだから、理想の親を引くまでガチャを回せなかったお前の責任だ

とか

でもお前の魂は”この親でいっか!”とか”親ガチャ楽しかったからいっか!”とか考えて今の親を選んだんだから、つまりは自己責任だろ

などという指摘を受け入れなくてはならないのだ。

やっぱりこれも、何かがおかしい。

「親ガチャ」という誤概念は自身の認識をぼやかす悪である

上記2つの例は、どちらも「生まれる前段階の魂が~」などと言い出している所から、全ての誤りが発生していると言える。

もしかしたら「親ガチャ」という言葉を使っている人の中には「別に魂がどうとかなんて言ってない」と感じる者もいるかもしれない。しかし僕が言いたいのは「親ガチャ」などと言う言葉を使うことは、「自分がどのように生まれるかは全て運次第」という当たり前の事実から自分が目を背けているということをぼやかすことにしかならない、ということなのだ。

矛盾しているように思うかもしれないが、実際の所「親ガチャ」という言葉の裏にあるのは「自分の親さえ選べたら人生はもっと良くなるのに!」という叫びだろう。

しかし、その考えはあまりに狭小だと言える。

「国ガチャ」という言葉もある。「日本は国ガチャSSR」だとかを言う物であり、どちらかというと「親ガチャ」からの派生・揶揄として生まれた言葉である。

では「国ガチャ」「親ガチャ」両方SSRを引ければそれで人は幸せになれるのか? そうではない。その先に待っているのは「顔ガチャ」「身長ガチャ」「家の立地ガチャ」「周辺の人間関係ガチャ」等々……まさしく無限の「自分の生まれガチャ」による「もっと○○だったら自分の人生は良くなるのに」という果ての無い欲求である。

自分の生まれについてifを考えることに際限などないのだ。人の想像力に限界が無いのだから、極論を言えば想像のなすがまま自分の理想の生まれを求めることは「もっと未来・古代に生まれていれば」「別の世界に生まれていれば」「異世界に転生さえすれば」などということを大真面目に考えるようにさえなりかねない。

そうやって「生まれた親さえよければ」「国さえよければ」「顔さえ」「身長さえ」「場所さえ」と嘆いているうちは、いつまで経っても「自分の生まれは全て運次第」という当たり前のスタート位置に立つことができないのだ。

そして、恐らくだが「親ガチャ」という言葉を使う者も薄々そのことに気付いている。しかし「親ガチャ」という誤概念、言い訳、まやかしが、彼・彼女をそのことに正面から向き合う邪魔をしてしまっているのではないかと僕は思う。

だから、「親ガチャ」という言葉は悪なのだ。

「親ガチャハズレた!」とは「人生難しすぎ!」という意味である

よく言う「人生は配られたカードで戦うしかない」という言葉が正に「○○ガチャ」の対極に位置する言葉であるように僕は思う。

「親ガチャハズレた! 人生オワタ」と嘆く人はつまり「うわ、配られたカード弱! 今回のゲームはもうダメだな」と言っているのと同じことなのだ。

そして、人生というゲームはカードを配られるのも、そのゲーム自体も1度きりだ。

「親ガチャハズレた!」などと嘆いている限りはいつまで経ってもゲームのテーブルに付くことができず、ただただタラタラと配られたカードの不満ばかり言って場を凍り付かせるだけのプレイヤーにしかなれないだろう。そんな人は誰からも共にゲームをしたいとは思われず、何も得ず、最後まで「でも配られたカードが……」とぼやいて退場していくことだろう。

そう考えると「親ガチャ」という言葉がここまで流行ってしまった背景には
、もしかしたら「人生というゲーム」自体の難易度が極端に上がってしまって、相対的に「配られたカード=親」の強さのハードルも上がってしまっているということなのかもしれない。

しかし誰もが皆、依然としてこの「人生というゲーム」に参加したいという気持ち自体は強く持ち続けているはずなのだ。さもなければ配られたカードの弱さを嘆くという「親ガチャハズレた!」という言葉すら社会から消滅して、テーブルに付く人が誰もいなくなるという事態が発生していてもおかしくない。

今、社会はどちらかと言うと「子に配られるカード=自分と言う”親”」の強さを上げようとしている人が主流のように思う。実際子供を持たない理由のトップには「経済力の不安」があり、第二位には「育てる自信が無い」が続くという現実がある。

しかし、そうではなく「人生というゲーム自体の難易度を下げる」というやり方もあるはずだ。ゲームが簡単なものになれば、自ずと配られるカードが弱い物であってもプレイヤーはその手の内でやりくりすることが可能になる。

そしてそれは、必ずしも社会全体が変わる必要があるという訳ではない。プレイヤーの「人生というゲームの捉え方」を変えるだけで、その難易度も大きく変わるはずだからだ。

親世代が「人生というゲーム」を難しく捉えすぎていること。その認識が子にも伝わることで、より一層「自分の手札の内でゲームをやりくりする」ことを難しくしている。

その果てが「ゲーム難易度に対して配られたカードが弱すぎる!」という意味での「親ガチャ」という言葉の流行につながっていっているのではないだろうか。

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