お米の神様? 第31話 お米は神様・1

 私が東京に嫁いで20年ほどたったころ、山形の実家では建物を解体して建て直すことになった。
 母から電話で話を聞いた時には既に仮住居と倉庫を借り、戦後、祖父母の代に引っ越して来た時から貯まりに貯まった家財道具や、捨てないでため込んでいたものを移す作業にかかっていた。

「お前のアニメやマンガの本も、段ボールに詰めて自動車小屋(ガレージ)の二階に置いておいたぞ。あとはこれから東京に送るし、要らなさそうなのはこっちで適当に捨てておく」

 創刊号から集めたアニメージュやロマンアルバムや、月刊アウトは無事だろうか。
 尋ねてもそうしたものに関心のない母は

「わかんねえ」

 としか言わない。
 そして程なく東京に送られてきた段ボールは、私の子供の頃のアルバムや、絵本に加えて、なぜか中高時代の卒業文集やアルバム、ノートなど、私にとってはちっとも要りようではないものが多かった。
 いつもそうだ。「お前はこっちに居ないから」と、全てが決まって物事が動き出してから、両親は私に伝える。
 余計な心配かけたくないという気持ちはわかるし大層ありがたいが、私としても古い家に帰って、もう少し感傷的な時間を持ちたかった。

 聴けば、昭和20年代に建てた古い木造の、織り機や糸繰り機が沢山残っている工場だけではなく、家族がいつも集ってテレビを見て食事をしていた茶の間のある母屋、台所にお風呂、祖母の死後に建てた離れも、全部解体して、いっぺん更地にしてから新築するという。
 その情報も、解体作業が始まってから私たち東京の者は知らされた。
 息子も、赤ちゃんの頃から毎年夏と春の休みを過ごした、山形の実家が無くなってしまうのを寂しがった。
 だが、後の祭りである。
 両親がこれから迎える高齢化を前に、屋根や駐車場に融雪機能を備え付け、家の中はトイレもお風呂も含めすべてバリアフリーにし、床の段差をなくし、玄関も通常の物の横にスロープも作るという。
 それだけのスクラップアンドビルドは大変な金額がかかるはずだが、若い頃から投機もギャンブルも株もせず、ひたすらお金を貯めていた両親と兄は、すべて現金で払ったらしい。
 ローン(月賦と実家では言った)は一切使わなかった。最もローンの借り入れができる年齢ではなかったのだが。
 頭が下がる。

 息子の大学受験がひと段落着き、推薦入試も合格との知らせが入った秋、私と彼は帰省した。
 新しい家が建ち、仮住まいから物も移動して納めるところに収めて、本人たちも引っ越しし、生活も軌道に乗って来たからおいで、と電話がかかって来たのだ。

『雪降ってくる前に一度遊びに来い』

 その声で、私と息子は週末にお休みをくっつけて出かけた。

 山形新幹線の停車する赤湯駅から、第三セクターである山形鉄道・フラワー長井線に乗り換え約40分。
 車で行き来するより時間をかけて、私たちは長井に帰った。
 長井駅は、父や祖父が毛のコートを着て帽子を被り、石炭列車で東京へ向かった高度経済成長期以前と変わらず、木のホーム屋根とペンキのはげかかった木造駅舎が線路沿いの紅葉に彩られていた。

「伽耶子、こっち」

 角刈りでジャンパーを着た男が笑顔で手を振っていた。
 兄だった。駅から家まではタクシーか徒歩で行くよと伝えておいたのに、兄が車で駅まで迎えに来ていた。
 にこやかに手を振って妹と甥っ子を迎える兄の姿は、ちょっと前まで想像できないものだった。
 私の記憶に強く残る姿は、家を継ぐ継がない、大学に行きたいで揉め、織物の専門学校に行けという両親に反発し、ムスッと口をきかずいつも険しい顔をした、恐い兄だったからである。
 その後も私一人が帰省した時は無口で、いつもそそくさと食事を切り上げ自分の部屋に籠ってしまう、寡黙で頑固な男として見えていた。
 だが、愛する甥っ子を前にすると大変に優しい、柔和な「にいにい」になるらしく、私とは反対に息子はいつも笑っている兄の姿しか知らない。

「にいにいは、いつもこうだよ。面白いこと一杯言ってくれるよ」

 と兄の車に乗り込みながら言う息子の言葉に、兄はまぎれもなく『じじちゃ』に似ているのだと思いだした。

 高校の頃自転車で通学した道を通り、神社の参道少し手前の十字路を右に曲がり、特定郵便局のちょっと手前。
 隣家の柿の木と、テーラーの板塀に挟まれた横に長い土地にあったはずの我が家と棟続きの工場は、きれいさっぱりなくなっていた。
 見覚えのある庭の松やモクレン、ライラック、ドウダンツツジやキャラボクの姿は見とめられたが、庭はかつての半分に縮められ、子供の頃かくれんぼをした苔むす岩、父と祖父がブランコを置いてくれた大きなヤツデの木陰はなくなっていた。
 代わりに自動車小屋続きのコンクリートを打った駐車場が、かつての倍の広さになり、その奥に民宿か和風のペンションのような家が建っていた。

「何ぽけっとしったな?」
「家、随分思い切って変えたね、お兄ちゃん」
「しゃあねげんど、大工様に任せたらこういう家になったって言ってた」

 雪国特有の二重玄関をただいまー、と開けると、小さな旅館ですかという風な磨き抜かれた玄関と、段違いの間仕切りの棚、勝手用と来客用に下足をわける玄関の叩きがあった。

「なにこれ、料亭?」
「料亭でなの無いごで、大工様の趣味よ。おかえり」

 一回り小さくなった母と、祖父にそっくりのセーターを着た白髪の増えた父が迎えに出てくれた。

 茶の間も寝室も仏間もすっかり以前の面影がなくなり、かつて洋間の応接セットの奥にあった私のピアノは、なぜか皆が食事をする茶の間の、フローリングの上に置かれていた。
 納戸が幾つも増え、つきあたりのじじちゃのトイレだったところはウォーキングクローゼットになっていた。

「びっくりしたが? 工場潰した分広くなったんだ」

 沢山あった織り機や他の糸撚り機械、染付機械は全部米沢の本家に譲ったという。
 もう手織り物関連の機械を作る職人がなく、メンテに苦労していた本家は喜んで、何台もの大型トラックをチャーターして持っていったという。

「面影ないね」
「うん。無いなだは(もうないんだよ)」

 父は少し寂しそうだったが、75を越して急に仕事をする気力がなくなったと言いだし、廃業を決めたのだという。
 せっかく織物の教育を受けさせ、他所の産地で修行させた兄だが、中年と言われる年になってエンジニアに転向させたという。
 十代の頃から葛藤し、反発した兄に跡を継げと言い続け、ついに跡継ぎになってくれたのに数年後に廃業するから一般企業を探して働けと言われた、兄の青春時代は何だったのだろう。
 そう思わないでもなかったが、まだ独身の兄はそれどころではなく、自治体や青年会が主催する婚活に参加しているらしいだが、未だに話がまとまらないという。


(2に続く)

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