試みが身体化するまで

 年齢を重ねていく上で、いろんな新しいことに挑戦するのだけれど、それが大きな形で達成されない細々としたものがほとんどである。ブログを始める、〇〇を習慣づける、新しい画材に挑戦する、外で食べたラーメンは全てメモるなど。
 僕なんかは何でも屋なので、そういう経験の蓄積が重要であることに、気がつくようになった。それが自分の引き出しになるのだ。
 で、そういうものが「仕事」の糧、肥やしになるのには、ある程度の技術が身体化している必要がある。わかりやすい例でいうと、部活やお稽古があるだろう。「中学の時、卓球をしていました」とか「小学生の時はそろばんをしてました」とか。
 で、ブランクが長くても、その人の中に保存された技術というのは、一目瞭然なわけだ。美術だとこの技術的資産が外から把握されないわけだが、実際は確かにある。
 この身体化の資産が、その後の自分にどのような価値となって残るのかは、計算や説明できるものではない。だが、全く無価値ということはあり得ず、なんとなく残っているはずである。年齢を重ねて自分で始めたことは、もっと具体的な引き出しになる。
 その試みが、一生消えない身体化=引き出しとなるには、だいたい一年から二年は必要だという気がする。それは一年間で、水面に薄い氷が張るような感じで兆しを持ち、二年続けると活かし方はわからないが「変なもの」になっているという感覚を持つぐらいなんじゃないかと考えた。もちろん二年だけでは短く、それを仕事に活用するにはビギナーの域を超えるものではない。が、ビギナーにはなっている。つまり、そこでやめてしまっても、その後、その身体化=引き出しは体にある程度記憶されているのではないかということ。だから、やめてしまうにしても、二年くらい続けたもののは、一つの資産だと考えていいと思う。



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