【書評】松田政男『風景の死滅 増補新版』

 本書は、アナーキストで映画評論家でもある松田政男(1933-2020)の三冊目の評論集であり、1971年刊行本の増補新版となる。革命運動において、「情況」に代わる「風景論」の起点を提示した点で、エポック・メイキングとなる本書であるが、松田について簡単に紹介しておきたい。
 自由な校風で、近年は校則問題で生徒によるドキュメンタリー映画が制作されたことで話題になった東京都立北園高等学校在学中に日本共産党に入党し、当初は所感派に所属していたものの、1954年に党内の総点検運動に引っかかり、党活動停止となる。その後、同年に除名処分を受けた神山茂夫(1905-74)の許で活動し、1956年に神山派の出版活動の拠点である拓文館という出版社に配属される。だが、間もなくハンガリー革命の対応を巡って神山派から離れ(拓文館も神山派から独立)、以後は編集者として出版社を転々としながら、アナーキズムを模索することになる。本書のあとがきの追記において、「一九五六年の拓文館をふりだしに、ベースボールマガジン社-未來社-現代思潮社と経めぐりつつ」と松田は記しているが、何か一つ余計なものがあると思われるかも知れない。現在も発行されている『週刊ベースボール』でもお馴染みベースボールマガジン社であるが、松田が未來社に入社したのが1959年とあり、ここでは当時のゴールデン・ルーキーでも追っていたのかと皮肉を言っておこう。
 現代思潮社勤務の1965年に東京行動戦線という運動体を結成するが、同年11月11日の日韓条約反対闘争での逮捕により同社を解雇、1967年2月にレボルト社を創設する。この頃から映画評論も執筆するようになり、加藤泰(1916-85)監督の『男の顔は履歴書』と中島貞夫(1934- )監督の『893愚連隊』(いずれも1966年)を論じた「さわやかな決意、ものうい彷徨――加藤泰と中島貞夫」が『映画芸術』1966年9月号に掲載されたのが最初である。アルジェリア独立戦争を描いた映画『アルジェの戦い』(ジロ・ポンデコルヴォ(1919-2006)監督、1966年)を論じた「壁のなかの沈黙――『アルジェの戦い』について」が『映画評論』1967年4月号に掲載されたことで注目を浴び、1969年に最初の評論集である『テロルの回路』(戦術思想論集)が刊行され、翌1970年に映画論集である『薔薇と無名者』が刊行される。それに続くのが本書である。
 これまで『LEFT ALONE――持続するニューレフトの「68年革命」』(明石書店、2005年)の絓秀実氏による松田へのインタビュー等々を拝借して紹介してきた訳であるが、これから本書の内容に入る。本書は、先の二著と異なり、書評や映画評論、時評等々と雑多な構成となっており、「風景論」が主題でありつつも、体系的な構成にはなっていない。解説の平沢剛氏が言うように、「大文字の完成した理論というより、新たな「革命」のための未完の理論、思想」と見たほうがよい。そんな非体系的な本書の先頭を飾るのは、初版本では収録されなかった「密室・風景・権力」である。これこそが、「風景論」の発端であり、若松孝二(1936-2012)監督の映画『ゆけゆけ二度目の処女』(1969年)を論じたものであるが、詳しい内容を省く。その映画の結末は次のようなものである。「しかしいま、ひとりの少年が出て行くところは、風景のなかにしかないのだ。ひとりの少年とひとりの少女は金網を軽やかに跳び越え、つまり風景に身を投じて、そして死ぬほかはない、という結末でこの映画は終る。」これとの対称で、松田は、吉本隆明が出た先は「状況(情況)」だったことを挙げる。つまり、これは松田による革命にまつわる主要概念の転換宣言である。次に松田は、連続射殺魔として知られる永山則夫(1949-97)のドキュメンタリー映画を制作したことについて言及する。

 ところで、足立正生らとともに〈連続射殺魔〉永山則夫の全足跡を追って、網走から札幌・函館・津軽平野・東京・名古屋・京都・大阪・神戸にいたる日本の東半分、さらには香港と、くまなく歩きまわった私たちが、ドキュメンタリー映画とは言いながら、ただひたすら永山則夫の眼もまた見たであろうところの各地の風景のみを撮りまくって、いわば実景映画とでも自称するほかはない奇妙な作品をいまつくりつつあるのは、ひとえに、風景こそが、まずもって私たちに敵対してくる〈権力〉そのものとして意識されたからなのである。おそらく、永山則夫は、風景を切り裂くために、弾丸を発射したに違いないのである。国家権力ならば、風景をば大胆に切断して、たとえば東名高速道路をぶち抜いてしまう。私たちが、快適なドライブを楽しんだ時、まさにその瞬間に、風景は私たちを呪縛し、〈権力〉は私たちをからめとってしまうのだ。だから、情況も、情け無用の状況も、いまの私たちにとってはどうでもいいのだ、とあえて言っておこう。私たちは、風景をさえ超ええていないのではないか。

 今や死刑の際の量刑判断基準が用いられる時にしか、その名が話題に上らない永山の全足跡を追ったドキュメンタリー映画は、「去年の秋 四つの都市で同じ拳銃を使った 四つの殺人事件があった 今年の春 一九歳の少年が逮捕された 彼は連続射殺魔とよばれた」というトップ・タイトルで始まる『略称・連続射殺魔』のことであり、いかにも反資本主義を標榜するかのような長さの正式名称であるが、その内容は、永山が流浪のさなかで見たであろう風景のみによって埋め尽くされるという異様なものである。その足跡を追うなかで、松田は風景を〈権力〉そのものと認識するようになる。そして松田は、永山が風景を〈権力〉そのものと認識したことで弾丸を発射したと考えている。
 松田は、「風景としての都市」という批評文で、永山が生まれ育った土地を見た印象について、次のように言っている。「植民都市・網走も、土着の町・板柳も、さらに、ここで一足飛びに言っておくならば、中央都市・東京も、私たちの眼には、さして変りなく映じたのであった。」そして、寺山修司(1935-83)のように、真冬の津軽を体験していないことに留意しつつ、都市と地方の風景について次のような結論を下す。

 しかし、私たち旅行者の眼は、ちょうど、中央=豊饒、地方=荒凉といったステロタイプな発想しかできなくなってしまっている地方出身の亜インテリたちの眼と、逆立した対をなしていると言っていいのだ。中央にも地方にも、都市にも辺境にも、そして〈東京〉にも〈故郷〉にも、いまや等質化された風景のみがある。私たちが、かりに津軽平野に広漠と連なるリンゴ園を見たとしても、それは決して緑の森林としてでなく、白くまだらに汚れた農薬の撒布がただちに私たちの灰色の首都を連想せしむるていのものとしてしか映じないのだ。むろん〈荒凉とした空〉とは、スモッグの漂う私たちの宙天の呼び名でもある。

 つまりは、網走や津軽平野に限らず、日本列島のいたるところで東京のような風景が見出せると言いたい訳である。それも、「広漠と連なるリンゴ園」に農薬が白くまだらに撒布されていると松田が見るところを念頭に置けば、資本主義の浸透によるものと察しがつく。
 ところで、私事で恐縮であるが、筆者がまだ幼少の頃に、津軽の風景を見たことがある。もう二十五年以上も前のことで、父親の故郷に連れてこられた格好なのだが、松田が見た時よりも二十五年も後の風景ではあるものの、筆者が生まれ育った湘南のとある一地域とあまり変わらないように思われた。そのとある一地域も、当時は意外と畑が多かったことにもよるのだろう。だが、現在では、ほとんどの畑が埋め立てられ、アスファルトが敷き詰められ、跡地には多くの家が建てられている。筆者が津軽の風景を見たのは、その二十五年以上も前のたった一度きりであるが、今ではこの湘南のとある一地域の様子と同じなのかも知れない。
 真冬の津軽を体験していない松田の〈荒凉とした空〉という言葉の用い方には疑問があり、貴方は農薬とスモッグを同一視したいのかと言いたいぐらいであるが、どこにでも等質化された風景のみがあることは、的を射ているように思われる。
 松田は、日本列島の各地が都市のコピーに過ぎなくなったものと捉え、それゆえ、永山に限らず、多くの地方の若者が「始原世界」を求めて、〈東京〉へ向かったと考えている。「〈東京〉にこそ彼らのさがしもとめる始原的なるものがある。なぜなら、彼らにとっての〈故郷〉とは、〈東京〉のイミテーションにしかすぎなかったからだ。」そして、結果はどうだろうか?「失われてしまった始原的なる〈故郷〉をもとめる旅は、かくて、何処まで行っても相似した風景の発見として常に終りを告げることとなる。」ならば、始原的なるものを求める地方出身の若者は何をすべきか?「「故郷を捨てた貧しい青年達」は、真制の故郷を、「大都市東京に対する反逆」のうちに実現せしめようとする。」もっとわかりやすく言うと、次のようになる。「不可視のムラの入口で」という批評文からの引用になる。

 私たちは、中央対地方といったような、この種の不毛なる二分法を排し、わが列島のなかで、真制のムラビトたるべく、下層プロレタリアート形成の道程をさらにさぐらなければならない。必要なのは、静的な学術的分析や知的啓蒙ではない。まさに動的に流浪する永山則夫たちとともに、第三のムラ、不可視の故郷へと向って旅立つことである。私たちのマドのなかに拡がる風景のなかに、ムラへの入口が存在する。私は、果して、この入口にたどりつくことを得たであろうか。

 これがアウフヘーベンなのか、または、ディコンストラクションなのかといった疑問は脇に置くとして、これは、現象の背景に物があるなどという時代遅れの近代的な哲学者以上に馬鹿気たことと言わざるを得ない。こんな観念的なことを言ってないで、都市の路地や地下などに、スラムだとか、アジトだとか、アジールでも建設していくほうが、はるかに現実的であるのは言うまでもない。松田がそれすら都市の風景だと言おうとも。それに、永山は風景=〈権力〉を切り裂くために、弾丸を発射したとあるが、永山がピストルによって切り裂いたのは、風景=〈権力〉ではなく、空気であって、人間である。風景が〈権力〉であろうが、その等質化された風景が、日本列島全土を包摂しようが、風景に囲まれながら権力の解体の機を窺い続けなければならない。風景の先にはまた風景があるのみである。
 「ユートピアの反語」、「「風景」と「情況」」、「なぜ風景戦争なのか」といった批評文は、大島渚(1932-2013)監督の映画作品『東京占戈争戦後秘話』(1970年)を紹介、かつ、論じたものであるが、〈何処にでもある風景〉を〈何処にもない風景〉としてのユートピアの反語であると断定しただけで、「風景論」の考察が深められたとは言い難い。
 最後に、「風景の死滅のために」という批評文を見ていく。初版本の最終盤に当たるところであるが、そこではまず、津村喬による問題提起が語られている。津村は、松田の「風景論」の意義について、「ヴォワイヤンとしての近代人にとって、風景が国家権力のテクストとしてあることを提起した点にある」としつつ、問題提起が綺麗過ぎて、国家は風景(エクリチュール)の彼岸のみならず、此岸=〈雑音〉にもあることが見過ごされていると言う。自身の「風景論」の批判者への批判や新藤兼人(1912-2012)監督の映画作品『裸の十九歳』(1970年)への批判や『イージー・ライダー』(1969年)と『バニシング・ポイント』(1971年)というアメリカ映画を紹介しつつページを費やす松田は、結局のところ、津村の批判を認めざるを得ない。そして、松田はこの批評文を次のように締め括る。

 工学的美学的「仮面」が剝がれる時、その時、私たちは、死滅せざる国家の巨大な鉄の爪と正対するであろう。かくて、〈風景論〉は正確に〈国家論〉として再構成されざるをえなくなる。その時、都市的なるものの追求は、果して、風景と国家を相互に止揚すべき媒介の論理として自己を定立させうるであろうか。どうやら、私は、ふりだしに戻って、再び、余りにも「キレイすぎる」問題のみを提起したようである。そしてしかも、ゴダールの言うように「すべては、まだ手をつけられずに残っている」のだ。

 結局は振り出しに戻ったという訳である。言うまでもなく、松田は「風景論」を提起した時から、永山の全足跡を通じて、風景を〈権力〉として意識化していたからである。その上、風景の彼岸にも此岸にも国家権力があるのであれば、松田の言う「不可視のムラ」は一体どこにあるとでも言うのであろうか。風景の此岸で、権力に見張られながら、都市に限らず、地方の路地や地下にスラムやアジトやアジールを静かに建設していくより他にはないように思われる。
 本書には、他に「野獣と革命」と題する大杉栄(1885-1923)についての批評文も収録されているが、元々アンソロジーの解説として書かれたためか、大杉について詳しく調べた筆者にとっては、やや物足りないものとなっている。
(航思社、2013年11月刊)

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