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小野耕資「農本主義と現代の農業問題─グローバルアグリビジネスを打ち破れ」(『維新と興亜』第7号、令和3年6月)

食で世界をコントロールする?
 「食を支配すれば、その国の民をコントロールできる」。
 かつてアメリカのキッシンジャーはこのように言い放った。まさに現代はグローバルアグリビジネスによる世界のコントロールが進んだ時代だといえよう。グローバルアグリビジネスは隙を見つけてはその国に入り込み、その国の土着的農業を破壊し続けてきた。
 例えばイラク。イラク戦争によりイラクは米軍から空爆を受け、灰燼に帰した。そのあとを米軍が上陸平定したわけだが、灰燼に帰した土地では食糧生産もままならない。イラクには食糧危機が訪れた。
 そこに侵出したのがモンサント(現バイエル)である。モンサントは米国政府に働きかけ、アメリカはイラクに遺伝子組換種子と除草剤を補助金付で無償提供した。もちろん彼らがこのようなことを慈善でやるはずがない。もともとイラクは伝統農業が盛んな土地であった。だが、これによりイラクの伝統農業は終止符を打たれてしまい、以後毎年モンサントから種子と除草剤を買わなければ生きていけない農家を量産した。遺伝子組換の種子と除草剤の効果により、最初は豊作となるが、次第に土地が痩せていき、大きな収穫は見込めなくなる。しかしそのころには伝統農法のノウハウは継承されずに絶えてしまっており、苦しくなるとわかっていても、引き続きモンサントから種と肥料と除草剤を買いつづけざるを得なくなる。儲かるのはモンサントだけという寸法である。
 現代農業はこのようにグローバルアグリビジネス化した企業群によって破壊され続けてきた。天災や人災による食糧危機が発生するたびに、グローバル農業資本が進出し、復興支援の名目で種子や農薬をセット販売、特許権で儲けて現地の農業を破壊してきたのである。インドや東南アジア、アルゼンチン、メキシコ、ブラジルなどがその被害に遭った。惨事便乗型資本主義の典型例である。

グローバルアグリビジネスに対抗せよ!
 もちろん世界各国の民は、このような事態にただ手をこまねいていたわけではない。対抗する国際的農民運動も盛り上がってきているのである。
 世界六十九カ国、百四十八の農業組織により構成されているビア・カンペシーナは、自らの土地で食料を生産する権利を指す「食料主権」という概念を最初に用い、一九九九年以来市場原理主義に基づく「農業改革」に抗すべく世界的なキャンペーンを展開している。多国籍企業、WTO、IMF、世界銀行などが進める自由貿易・新自由主義体制に対するオルタナティブとして、NGOや社会運動との広範な連携を模索し、食料主権を提起している。
 世界も日本も、農業を担っているのは小農、家族経営である。アグリビジネスと化した国際農業大資本には連帯して対抗する必要があるのだ。ビア・カンペシーナは土地・水・種子及び他の天然資源の保全、持続可能な農業生産を目的とし運動を行っているのである。
 またおなじく二〇〇〇年ごろには、バングラデシュの農村で新たな農業運動が起こった。「ノヤクリシ・アンドロン」。「新しい農業運動」という意味だ。具体的には農薬、化学肥料を止めて、村の共有地の池や湿地、共有林の生態系を取り戻そうというものだ。バングラデシュはグローバル農業資本が持ち込んだ農薬や化学肥料により土壌や水質汚染が深刻になり、収穫量が下がっていたのだ。それへの対案は伝統的暦に基づく農法であり、村で種子倉庫を共同管理するといった「共同体の農業」なのだ。農薬を使わない代わりに、伝統的無農薬農法では虫や鳥が作物の成長を助ける。短期的に見れば迂遠なようだが、これらの取り組みにより固有種が守られ、農作物の生物多様性が確保され始めている。こうした活動こそがベンガルの伝統を守ることに繋がっているのだ。「ノヤクリシ・アンドロン」を主導する研究機関「UBINIG」はバングラデシュの伝統無農薬農業や伝統織物技術を守ることが村の農民の本当の自立に繋がるという信念を持っている。

戦前日本の農本主義を見直せ
 こうしたグローバルアグリビジネスへの抵抗が、村の共同体としての機能や伝統的生活様式を取り戻すことと結びついていることは非常に興味深い。戦前日本で唱えられた農本主義も、単に農家に補助金を寄越せというような農家の利益を追求するものではなく、より高次に伝統的生活様式の大事さを説くものであった。
 橘孝三郎は、「(農業が)機械化すればするほど、人間は機械に追い立てられていくことになる」と、農業の機械化、効率化による大規模化を批判。西洋近代的物質至上主義からの脱却を唱えた。その目指す先は「自己の生活を自己で支へる」(『土の哲学』)というものであった。
 権藤成卿は、『自治民範』をはじめとした一連の著作で「社稷自治」を主張した。これは明治時代以降のわが国が西洋列強の植民地支配から逃れるために富国強兵殖産興業政策を進めてきたが、その中で置き忘れてきた地域共同体やそこに根付く原初的信仰こそが古代の天皇統治の核であったと主張することで文明開化的手法を見直させることにあった。
 権藤の「社稷」の主張は、民衆の自治を無視した国の統治はあり得ないという主張であった。だがそれは現代の根無し草で自己利益ばかりに目が行く大衆ではなく、その土地土地の自然や風土、伝統、共同体を背負った民なのである。つまりその民は「祖先との共生」(柳田国男)を行っている民なのである。
 同じく農本を実践した思想家に青森県五戸出身の思想家、江渡狄嶺がいる。狄嶺は旧南部藩出身者として薩長藩閥政府への反発を感じつつ、トルストイやクロポトキンに惹かれる。信仰と郷土に抱かれる簡素な生活。「ドーしても、このトルストイの良心を、自分の生活の中に生かさねばならぬ」。そして狄嶺は徳冨蘆花の世話で東京府千歳村船橋に一軒の小屋とわずかな土地を借りて帰農し、百姓愛道場なる農業塾を設立した。
 そこでは「農民憲章」なるものが制定されている。要約抜粋すると、「農業生産は特殊であること」「農業生産物を貨幣原理で扱ってはならないこと」「農産物は生命の根であること」「農民は公において守られるべき権利を有すること」「農民の身分を国家は保障すること」が謳われている。狄嶺が強調した言葉が「公(おほやけ)」であった。公による保障とは、政府による支援という意味ではなく共同体の連帯を意味する。連帯があってこそ初めて自立も可能になる。人間は来る日も来る日もただ黙々と土を耕せばよい。無理をせず「ホントーによい事」をして生きればよい。狄嶺は農業を非常に信仰的な感覚で理解していた。他にも何人も思い浮かぶが、いずれにせよ戦前日本の農本主義者たちは農業を通して共同体の問題、農業の産業化の問題を世に問うていたのである。
 かつて収穫とは、田の神、畑の神がもたらすものであり、それは先祖の霊が子孫に授ける恵みであった。だからこそ先祖を同じくする村の人々の連帯で行われなければならなかった。そうした信仰共同体的側面を排除した果てに成立したグローバルアグリビジネスでは、農民の生活も農業の意義も先人の知恵も守れないのである。

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