かえってきた、ぼくらの夏
存在が当たり前だと思っているコト、モノほど、喪失感は大きい。
「もう一段、あると思っていた階段」
「AM8:00、朝ドラ【おかえりモネ】を見ようとしたら土曜日だった」
など自分だけが、ガクッとなる程度ならいい。
人生の中で1回しかない、一つしかない、と思っているものが無くなったら。どれほどのことだろう。
そう今回は高校野球の話。
その夏の甲子園が2年ぶりに帰ってくる。
記者時代、夏の大会の取材が好きだった。少年野球時代から見ている地元の選手たちが、1年ごとに心身ともに大きく成長しながら高みを目指す。
オーバーな言い方をすれば宗教的ともいえる礼儀正しさと、若さの爆発が共存する現場。
目まぐるしく変化する喜怒哀楽についていくのがやっとで、試合結果と一緒に何を伝えるべきか、何を残すべきかを瞬時に判断するのが、醍醐味だと思っていた。
自分は記事のスクラップなどはしていないズボラ記者だったが、大切に保管をしていた約10年前の新聞がある。
2012年元日発行の東京中日スポーツ。恐縮ながら、取り上げていただいた。
あれはこの前年、2011年夏の高校野球の取材だった。開会式翌日7月10日の柴田球場。宮城県南にあるこの球場に行くのは初めてだった。入道雲がモクモクと沸く、とても暑い日だったが、激しい雷雨で試合が中断した。自分が書いた石巻日日新聞の記事でも、その雨に触れている。
第93回全国高校野球選手権宮城大会の1回戦が10日、県内の各球場で行われた。柴田球場では石巻が気仙沼西との被災地同士の戦いを9―1の7回コールドで制し、初戦を突破した。東日本大震災で部員の半数が自宅に被害を受け、4人が家族を失っている中での勝利。集まった大勢の保護者らをおおいに沸かせた。なお、仙台市民球場では石巻好文館が古川黎明に0―3で惜敗した。
○…石巻は初回、先頭打者の●●●が右翼への二塁打で出塁。犠打失策で一、三塁とすると、●●●の左中間を破る走者一掃の二塁打で先制。さらに●●●の左前安打で追加点を挙げ、あわせて3点を挙げた。続く2回にも●●●が左翼への2点本塁打を放つなど4点を奪取。序盤から相手を突き放した。その後は雷雨により試合が2時間ほど中断されるアクシデントもあったが、主戦左腕の●●●が緩急を織り交ぜた投球で要所を締めた。
水温も水量もシャワーのような、ものすごい雨だった。
駐車していた車に避難し、「こりゃ中止もあり得るなぁ」と思いながら数十分。しびれをきらして球場の喫煙所に行くと、50歳から60歳ぐらいの渋めの男性が煙草をふかしていた。
灰皿を囲むと、話が弾むのは不思議なもの。被災地の甲子園予選をめぐっている在京のベテラン記者の方だという。名刺を交換し、再会を約束してその日は別れた。ただものではなないとは思っていたが、元日のコラムを執筆されるような方だとは思わなかったので、とても驚き、また共有の思い出を持てたことが嬉しかった。
この東京中日スポーツから約3か月後、大先輩の記者の方と再会を果たすことが出来た。
石巻以外の方でも、あの選手宣誓を覚えていらっしゃるかもしれない。石巻工業高校が21世紀枠で出場を果たしたセンバツ大会。もちろん、再会の場所は阪神甲子園球場。それも喫煙所だった笑。不慣れな地、聖地での取材をする上で大変お世話になったことをよく覚えている。
この甲子園絡みで、もう一つ、自分のことが「地元紙の記者が大号泣をしていた」と全国紙に掲載されてしまった話も。
そのエピソードとドタバタ甲子園取材の裏話はまたいつかの夏に。
今はまず、未曽有のこの時期に、何とかでも大会ができる状況に安堵しつつ、選手たちが、精一杯戦える環境が整うことを祈っている。
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