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残存する縄文的社会から贈与社会の平等と平和について考える『縄文の思想』(瀬川拓郎著)

考古学者・アイヌ研究者の瀬川拓郎さんが書いた『縄文の思想』。タイトルは縄文ですが、語られているのは主に弥生以降の時代の話です。縄文ファンとしては、「縄文の思想」と題された第四章を読めば済むと思いますが、三章までを読むと、そこに至る論理がより分かるという感じです。

弥生以降の周縁から縄文に思いを馳せる

論を紐解くのは弥生時代から、大陸から弥生文化が流入したあとも縄文文化が本州沿岸部の海民と北海道に残ったという話です。

海流の話とか、続縄文時代の北海道の人たちが大型の獲物を集中的に捉えるようになったことだとか、北からやってきたオホーツク人と続縄文人/擦文人の関係だとか、海民にルーツを持つ長野県の阿曇氏(現在の安曇野の語源)の話だとか、色々面白いエピソードが出てきます。

その中で一番気になったのは、続縄文時代の北海道でモノによる威信と名誉のあからさまなアピールが生まれた(良いものをたくさん持つ人を「宝もち」という)ということです。これを解釈すると、縄文時代においては威信や名誉は人格や行動によって得られたものだったのが弥生文化の流入によって変化したということです。これは縄文の贈与の文化と弥生の交換の文化の違いに繋がります。

もう一つは、かなり力を入れて語られる海の神と山の神の往還で、これは縄文の人々の世界観が平地を欠いた山と海を二元的に捉えるものであったこと、そしてそれが死生観と結びついていることで、縄文時代においては「自然と構造的に結びついた世界観・他界観が現実の世界そのものであり、したがって自然それ自体が人々の生と死を意味づけるものであった」ということです。

そして、その往還する神が海民においては「まれびと」(例えば秋田のなまはげ)と結びついているというのは、余談ですが、土偶が人でも神でもないものをかたどったのではないかという仮説とも結びつきます。

贈与によって成立する内部と、無縁化によって遮断される外部

第四章で語られるのは縄文の社会論。ここでもアイヌや海民からそれを紐解いていきます。

中心にあるのは贈与の概念。海民が外部の人に物をあげるときにいったんそれをお金で買うという形をとったり事例から、共同体の内部は贈与によって成り立っていて、それが外部に出る際には無縁化するというのです。無縁化というのは詳しく説明されていませんが、内部の贈与の系から切り離すことを意味し、海民はそれを貨幣との交換により商品化することで成り立たせているというのです。

アイヌの人々はヤマトの人々と交易する際に、大量の鹿やサケをチャシ(一般的には砦といわれる祭祀などに用いた場)で処理することで無縁化したという仮説も立てます。

これは、縄文時代からつながる社会においては贈与でつながる「内部」とそれ以外の外部が区別されていたことを意味します。そしてその内部は「閉じた系」であり平等に分配される社会であったというのです。

なぜなら、その内部で贈与によって平等に分配されるものはそもそも神から贈与されたものであるから。神から与えられたものは誰かのものではなく、平等に分配されるべきものだったのです。

そして、縄文時代においては日本列島全体が一つの巨大な閉じた系であり、それにより1万年以上に渡って平和で平等な社会が続いたと結論づけます。

これはかなり納得できる考え方です。しかも、神というのも現代的な絶対的な神ではなく、アイヌの文化を見てわかるように自然のあらゆるモノが神の化身であると考えると、それは自然と一体であるという縄文の人々の世界観に一致し、縄文が平和な時代であったという事実をうまく説明できるのです。

この本の論理をうまく説明できた気はしませんが、頭の中では縄文時代の自由と平等と平和をうまく整理できました。証拠が残っていないことなので、頭の中で仮説を立てるしかなく、この本はそれをうまく助けてくれる本なのだと思います。

最後に、現代的な意味について。瀬川さんは柄谷行人さんの『世界史の構造』をひいていて、「贈与と返礼」→「略取と再分配」→「貨幣と商品」の次に来る交換様式を「贈与と返礼を高次元で回復するもの」としています。つまり、未来に向けてわたしたちは縄文から学ぶべきことがあるということです。縄文時代の閉じた系における贈与社会を、今の開かれた社会においてどう実現するか、それが我々がいま考えなくてはいけないことなのかもしれません


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