私の愛した昭和感 〜振り返ればいつも富士そばがいる〜

この読み物は「富士そば Advent Calendar 2017」24日目の聖なる夜に捧げられた供物っぽい何かです。
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キリンジの堀込兄弟が自分たちの出身地について歌ったとされる「エイリアンズ」という曲をご存知だろうか。少し前にTVCMで頻繁に流れ、リバイバルした向きもあるようだ。

私は彼らと同じ埼玉のベッドタウンで幼少から成人まで、いわゆる多感な時期を過ごした。同郷である。歌詞に出てくる"バイパス"も"公団"も実家のすぐそばにあった。

何より"この星のこの僻地"というフレーズが自分としてはかなりしっくり来る。「ここはいわば本当の僻地だな」と10代の頃、実際よく思っていた。そんなところも重なる。

まあ、どこにでもある何の変哲もない近代日本の郊外風景を、見事に叙情的かつ普遍的に表現した名曲であることだけは間違いない。

現実には歌のようなロマンティックな感覚を覚えたことはほとんどないが、この曲を聴くと自分がそこで当時感じていた閉塞感のようなものや、しんとした冬の夜の静寂を破って"スポーツカーが火を吐"くブオンという音がどこかから聞こえた時の、そんな歌詞そのままの情景が思い浮かぶ。

曲が発表されたのと同じくらいの頃(キリンジを知ったのはもっと全然あとなのだが)、僻地であるベッドタウンから都内の大学に2時間ちょっととなかなかの時間をかけ通っていた。

授業が夕方まであった日、部室や暗室でグダグダと過ごしたあとの帰り道、大学最寄り駅前の狭い歩道沿いに店を構えた富士そばでよく腹ごしらえをした。

そういえば入学した当初は、店に入りたくてもなかなか入る勇気が出なかったことを覚えている。

立ち食いそば屋自体、ガテン系や少しくたびれた感じの中年サラリーマン、はたまた呑んべえのおっさんがいるような店で、何というかちょっと暗めで渋い昭和的な空気に近づきがたい印象を抱いていた。

高校を卒業したての18の若造を寄せ付けないような、そこはかとない雰囲気みたいなものを勝手に感じていた。そして友人と行く店として候補に挙がることもまずなかった。

ただある時どうしようもなく腹が空いて、元来そば好きであることからもそばがたまらなく食べたくなって「えい」と店に飛び込んだ。店内は立ち食い席と座席の両方があり、演歌が延々と流れるザ・場末といった風情。今みたいにどこの店舗もキレイな内装になる前であったように思う。

壁一面には経営者の丹道夫氏を含むよく知らない演歌歌手のポスター&サイン。確か演歌のカセットとかCDも売っていたように記憶している。

失礼かもしれないが、店員さんはどこか生活疲れしたような中高年の女性や男性で、すでに世は平成だったがまるで昭和を再現したアミューズメントパークのように感じた。

その空気が何となく好きだったし、同時に少し大人(いっぱしのおっさん)になったような感覚を味わえた。

私は当初から例に漏れず、コロッケそばとカツ丼を好んで注文した。コロッケそばには大抵外れがなかったが、カツ丼のできはおみくじで引く吉凶くらいコンディションにムラがあった。

だが、それこそが富士そばクオリティー。あるいは醍醐味であるとも言えよう。その次くらいの頻度で肉そばorうどんを注文した。

肉そばは大学生にとってはちょっとした贅沢だったような気がするが、確かカツ丼の方が値段が高かったはずなので、その辺の感覚は今ではよく分からない。たまに温そばに生卵を落とすのも好きだった。

そのあと、大学二年時に池袋東口の喫茶店でアルバイトを始めた際は、休憩時に昼夜問わず通った(池袋東口店があった)。

池袋西口のロサ会館に映画を観に行った帰りの会館裏手の店舗、千石で初めて一人暮らしを始めた際は至近の巣鴨駅前店など、富士そばはいつも私のすぐそばにあり、そして腹を満たしてくれた。

決して友人たちとワイガヤしながら行く場所ではなかった。日暮れ頃から夜にかけ、何なら終電帰り、あるいは呑みの帰りに一人で入店し、その何とも言えない寂寥感というか侘しさというか場末感のようなものをひっそり楽しみながら食す。

それが自分なりの流儀のようなものだと勝手に決め付けていた。巣鴨の24時間営業の店舗には本当によくお世話になった。

一時期小諸そばの豊富な品数やセットメニューに寝返ったこともあった。

だが北千住にも、神田にも、上野にも、新宿にも、荻窪にも、石神井公園にも、大山にも、代々木にも、東京八重洲にも、そしてつい最近では下北沢にも、15年の時の流れの中で私の住む場所、働く場所、訪れる先のどこにでも富士そばはあった。あってくれた。

今でこそ清潔感を醸した和風な内装に変わり、ほとんど椅子席のみの店になって、私が思い描く昭和感は少し薄まった。だがあの渋い書体の「名代富士そば(なだいふじそば)」の看板とBGMに演歌が流れるあの雰囲気は昔とそれほど変わらない。

変化したのはここ10年くらいの間で、より幅広い世代の人たち、老若男女やファミリー層にも利用される様子が見受けられるようになったことだろうか。私も近年、石神井公園駅前の店舗は何度か奥さんと食べに行ったし、本当に客層は広がったなと実感する。

今でも夜の街の灯りの中、あの「名代富士そば」の看板を見つけると少しだけホッとさせてくれる、そんな気がする。そう、振り返るとそこにはいつも富士そばがいる。


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