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杉田庄一物語 その50(修正版) 第五部「最前線基地ブイン」 昭和十八年をむかえる

 昭和十八年一月一日、ブイン基地では敵襲もなく、この日は隊員たちも正月気分を味わっていた。ただし、前日の三十一日、正月用物資を運んできた輸送船がバラレ沖で敵潜水艦によって撃沈されてしまい、餅も雑煮もなかった。

 ブインに駐留していた陸軍将兵百四、五十名は食べるものすらままならず、せめて正月くらいキャラメル一個でも与えたいので分けてくれと陸軍の中尉が海軍指揮所に相談に来て、主計科士官に断られている。主計科士官は、一箱の一個と勘違いしたのだが、相談に来た陸軍中尉は一粒の意味であったことがわかり、すぐに分け与えたということがあった。

 前線基地であるブインはおだやかな元旦であったが、ラバウル基地ではB17爆撃機による爆撃が行われていた。「零戦隊長 宮野善治郎の生涯」(神立尚紀、光人社) によればラバウルの五八二空の山本栄司令は、以下のように日記に記している。

<元旦や 宿舎の庭に蝉が鳴き
  元旦の暁破る 弾丸の音
〇三〇〇〜〇四〇〇、敵大型数機来襲、熾烈なる地上砲火により相当の損害を与えたると認む。fc×12追撃、内一機(長野喜一飛長)B-17に三撃、増槽を落下せしむ>

「零戦隊長 宮野善治郎の生涯」(神立尚紀、光人社)

 一月二日、撤退の方針が決まったとはいえガダルカナル島にいる部隊への補給は続けられなければならず、二〇四空は増援輸送物資を送る輸送船団の上空哨戒を二直にわけて実施した。二直目にあたった宮野大尉以下の七機が船団上空でグラマンF4FやSBDドーントレスの編隊と空戦になった。

 「宮野大尉が二機、日高初男飛曹長、大正谷宗市二飛曹、藤定正一飛長、杉田庄一飛長が各一機、川田彦治飛長と西山静喜飛長が協同で一機を撃墜」と戦闘行動調書に記録されている。

 一月三日、陸海軍中央協定で、南東方面における航空作戦の分担が改められた。「陸軍は在ニューギニア部隊の地上作戦及び防衛協力並びにニューギニア方面における補給輸送の援護。海軍は陸軍の担任する以外のソロモン群島及びニューギニア方面の航空作戦」ということになった。これにより陸軍はもっぱらニューギニア戦線に注力することになった。

 一月四日、ムンダ基地をめぐる制空権争いが激化していて、田上中尉や島川飛長らが哨戒で飛んでいる。ムンダ基地には、熊本六師団の高射砲隊が配備されていたが、ガダルカナルの米軍ヘンダーソン基地とブイン基地の中間に位置していて、敵機の来襲がはげしかった。この日の夜には、米軍の巡洋艦隊がムンダの滑走路にむけて艦砲射撃をおこなっている。

 一月五日、前夜の攻撃をおこなった米軍の艦隊が、レンドバ島方面に向かっているのを発見される。そこで五八二空の艦爆隊十二機と二〇四空、五八二空連合の零戦隊十八機が出撃した。

 このころ、固定脚で時代遅れの九九艦爆は出動に対する損耗率が高く、日頃から搭乗員たちはあきらめの表情をしていた。そこで小福田少佐や宮野大尉はかねてから考えていた新たな艦爆隊護衛戦法で臨むことにした。「戦闘機隊を直掩隊と遊撃隊に分け、艦爆隊が突入する前に遊撃隊が前方の敵を排除する。直掩隊も二隊に分け、一隊は艦爆といっしょに降下し爆弾投下後に上空五百メートルで待機するもう一隊と合流し傘のように艦爆隊を守る。」という三段構えの計画であった。

 二〇四空は直掩隊と遊撃隊、五八二空は艦爆が攻撃隊、戦闘機は直掩隊という編成で、宮野大尉が総指揮官、森崎予備中尉が直掩隊の隊長、日高飛曹長が遊撃隊の隊長と記録されている。午前四時三十分にブイン基地を発進し、敵艦隊の位置不明のままムンダ南東方面をバリカン運動で予想海域に達した。バリカン運動というのは、二組の編隊がバリカンの刃の動きのように左右から交互に交叉しながら飛ぶ方法である。

 午前七時頃にガダルカナル島ハンタ岬南東をレンネル島方面に向かう敵艦隊を発見する。上空には、飛行艇、水上偵察機、戦闘機などが配されていた。作戦通り遊撃隊は増速して艦爆隊の前に出る。直掩隊の第二小隊は、敵艦隊上空の水上偵察機と飛行艇を攻撃し、ただちに撃墜した。しかし、高度四千メートル上空で待機していたグラマンF4F戦闘機約十機が艦爆を攻撃し、一機が火だるまになって海面に落ちていった。直掩隊の戦果はグラマン四機、飛行艇一機、水上偵察機一機であった。

 この日はブイン基地上空にB17爆撃機が五機、ロッキードP38戦闘機が七機、新機種のグラマンF5スカイロケット双発戦闘機六機が来襲した。警報により待機していた六機の零戦が迎撃にあがり、「グラマン双発二機、ロッキードP38を一機撃墜」と記録されている。

 早朝の攻撃から戻った宮野に休む間も無く、翌日予定されているポートモレスビー攻撃に出るラバウルの陸攻隊の援護隊に合流せよという命令がくだった。援護隊十二機の搭乗員編成を行い、その日のうちにラバウルに向かった。杉田は第二中隊第二小隊二番機として編成メンバーに入っていた。

 一月六日、ラバウルの五八二空飛行隊長の進藤三郎大尉を総指揮官としてポートモレスビーに攻撃をかけた。進藤三郎大尉は、海兵六十期で実戦部隊一筋の歴戦の飛行隊長だった。半年後に二〇四空の飛行隊長になるのだが、それは後日の話。

 午前六時に五八二空の零戦十八機と二〇四空の零戦十二機がラバウル東飛行場を発進する。すでに西飛行場から発進して空中待機している一式陸攻二十機と合流し、ポートモレスビーへ向かった。スタンレー山脈手前で厚い雲にはばまれ、やむなく引き返すことになる。五十機の大編隊が回れ右をして引き返す途中で、低高度で反航する大型四発機をみつける。B24爆撃機だった。大編隊にあわてて機銃を撃ってきたが、それに気づいた零戦隊が猛然と襲い掛かる。多勢に無勢、逃げようとして海面にぶつかりそのまま水没した。

 それとは別に午前九時、B17八機がブイン基地を空襲した。待機中の零戦がすぐに発進し追撃するが、雲間に逃げられてしまう。高度八千メートルで侵入するB17を発見してすぐに発進しても、その高度に達するのに三十分はかかってしまう。よくて一撃しかできなかった。

 一月七日から二〇四空は連日のように輸送船団護衛に出動する。日本陸海軍のガダルカナル島からの撤収は二月からとなり、それまで前線を維持しつつ撤収の準備にとりかからねばならなかった。そのため輸送船団の動きは活発になり、それにともなって敵機の攻撃も熾烈になってきていた。空戦もしばしばおきていて、戦果もあげているが二〇四空にも損害が出ていた。杉田は七日から十七日まで編成表にはいっていない。


<引用・参考>





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