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飛行機の本#25 銀翼のアルチザン(長島芳明)

三菱スペースジェット(MSJ)事業凍結のニュースが流れた。ここ数年、一歩進んで二歩下がるを繰り返していて、ずっと心配していたが、このコロナ禍がとどめを刺したようだ。12年間1兆円以上の投資が無駄になったと非難する報道もある。しかし、それ以上の意味をこの事業凍結はもっている。この20年以上にわたる日本製品の世界市場での足踏み状態を打開する技術と信用をかけたチャレンジだったのだ。自動車産業は裾野が広いというが航空機産業はそれ以上に裾野が広い。イノベーションの塊なのだ。あと一歩のところまできていたのに残念だ。

『銀翼のアルチザン』は第二次世界大戦中の中島飛行機の技師長である小山悌の物語である。アルチザン(職人)はアルチスト(芸術家)と対立する言葉と最初のページで解説されている。

小山悌は、日本の飛行機開発の勃興期から中島飛行機に入り、1式戦闘機「隼」や4式戦闘機「疾風」開発のトップリーダーだった。戦争末期には伝説の爆撃機「冨嶽」の設計にかかわっていた。三菱飛行機で零戦を開発していた堀越二郎と対比されることの多い設計者だが、戦後はいっさい飛行機と縁を切り森林業に関わっていたためあまり知る人はいない。しかし、そのセンスや開発した飛行機の性能は世界トップクラスであり、零戦でとどまってしまった堀越よりもさらに先をいくものであった。

零戦は開戦時には確かに世界トップクラスであったが、設計に伸び代がなかった。戦争中後期には飛行機エンジンは2000馬力が主流になったが、零戦は1000馬力程度で最高な力が出せるようにギリギリまで絞って設計していたため、脆弱な機体はそれ以上に発展できなかった。小山の設計した機体は、「隼」から「疾風」に発展していくことができた。戦争末期の整備不良や燃料の劣化でその性能を発揮できなかった。しかし、戦後アメリカ軍によって調査されたときには、アメリカ軍の使っていたオクタン価の高い燃料を入れたため「疾風」は驚異的な性能を示し、ムスタングやサンダーボルトなどの同時代のアメリカの飛行機を凌駕した。また、生産工程に対しても優れた設計がされていた。戦争末期の勤労奉仕の作業下で3500機以上の生産がなされた。生産現場と密着した設計がなされたためだと思う。そのようなセンスが小山悌にあったとも言える。また、軍用機製造にはテスト飛行で亡くなる事故がどうしてもついて回るが、中島飛行機で開発された飛行機に共通する思想が「徹底的にパイロットの生命を守る」だった。

「冨嶽」は、日本からニューヨークまで往復爆撃が可能な超巨大爆撃機である。夢物語のようだが、中島飛行機の創始者である中島知久平の強い意志のもとに軍や国から見放されても独自に開発を続けられていたのだ。終戦時に多くの資料が燃やされて伝説のようになっていたが、平成になってからいくつか資料がみつかってきた。羽田空港拡張工事のときに「冨嶽」のエンジンが発掘され、この開発が実際に進められていたことがわかった。また、中島知久平の隣家に「冨嶽」の設計図が残されていたのが発見された。GHQから調査されるのをおそれてほとんどの関係資料を焼却してしまったのだが、中島知久平のこの夢をなんとか残したいと思っていたのだろうか、知久平の末妹が隣家の方に隠してもらっていたのだそうだ。そして、この設計図には爆撃機ではなく旅客機としての「冨嶽」が書かれていたのだ。

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中島知久平という人物もユニークだ。この本の中でもたびたびそのエピソードが語られているが、徹底して自分の記録を残さないように生きていたので伝説が先行した。しかし、戦後亡くなってから関わった方の語りでその実像がだんだん明らかになってきた。小山はこの中島知久平のもとでその才能を伸ばした。当時の中島飛行機は軍や政府の言うことをあまり聞かず、自由な雰囲気でというか、けんか上等の熱い議論の中で開発プロジェクトを推し進めていた。後に日本のロケットの父と言われる糸川英夫も小山のもとで才能を伸ばしていったことがこの本で描かれる。

戦後、中島飛行機は富士重工となり自動車を開発する。当初、「冨嶽」がその会社名に残っていた。そして、現在のSUBARUになる。水平対向エンジンやアイサイトは、中島飛行機からの技術や思想の伝承であることがわかる。スバリストと言われる信奉者がいるのもうなづける。

また、中島飛行機東京工場はプリンス自動車になり、スカイラインを生み出した。GTRにもその遺伝子が引き継がれている。

三菱スペースジェット(MSJ)事業は凍結された。凍結であり、終了ではない。このまま終わりにして欲しくない。


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