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戦争を知る本#4 「責任 ラバウルの将軍今村均」(角田房子)

 かくも艱難辛苦の人生を常に真正面から向き合っていたことに驚いてしまう。

 いくつになっても夜尿症がなおらない。夜尿症を恐れるあまり、毎夜、四度五度と起きて小便に行く。そのため熟睡したことがなく、昼間はいつもうとうとしている。これは終生変わらなかった。運動だって得意じゃない。しかし、勉強はできた。新発田中学(現新潟県立新発田高校)では常に一番で卒業した。軍人になんかなりたくなかった弱い子で、夜尿症で悩んでいる成績だけは優秀な子が、父親を亡くし経済的な理由から陸軍士官学校にはいってしまう。軍人になってからも陸軍の学校での教員生活にずっと留まりたいと思っていたのに陸軍大学校に入り、首席でエリートコースにはまってしまう。陸軍大学校でも授業中は眠気と戦うために唐辛子を口に含み、小刀を太ももに刺すような苦労をする。今村は、自分で望んでいないのに今村でしか歩めない道をそうやって歩んで行った。しかし、国の進むべき道をあやまたずにとらえ、糺すべきことは先輩にも恐れず述べた。そのため、陸軍中枢部から前線部隊へと追い出されてしまう。運命は、今村を常に艱難辛苦のある方へある方へと導いているようだ。 

 太平洋戦争時、ニューブリテン島のラバウル基地は日本軍の重要な基地だった。陸軍も海軍もここを基点として南太平洋での作戦を実施していた。開戦時はオランダ領東インド(インドネシア)を攻略する蘭印作戦を指揮しいていた今村(当時は大将)は、ラバウル派遣の陸軍司令官に任命される。海軍のトップは草鹿中将だった。ミッドウェイ作戦後に日本軍はアメリカ軍の反攻に押されていくことになるが、大本営は陸海共同作戦で対抗しようとする。そのときの総司令官が今村となた。そして、作戦のためにラバウルに司令部を置いた山本五十六連合艦隊司令長官とは旧知の仲だった。日本の陸軍、海軍は敵以上に仲が悪かったが、忌憚なくなんでも話し合える今村ならだいじょうぶと山本も思っていた。この二人が、戦場ではなく、政治の中枢に残っていたならばおそらく日本は戦争に突入することはなかっただろうと思ってしまう。しかし、戦争につっぱしる軍の強行派はこの二人を中枢から前線に追い出してしまっていた。東条英機に真っ向から意見をいっていた今村は前線に追いやられた。ちなみに山本は三国同盟に反対して暗殺される危険があったために連合艦隊司令長官にされている。

 視察にきた山本司令長官は、そのまま戦死することになる。実は、山本が戦死する前線視察の直前に今村は山本に会いにいって「視察は危険だ、止めるように」と話している。しかし、山本の決意を知り、それ以上は言わなかった。ニューギニアが落ち、次はラバウルと覚悟したが、米軍は要塞化されたラバウルをそのまま飛び越して戦線を進める。結局、日本はラバウルを放棄して、前線を日本にどんどん近づけていき終戦になるのだが、補給がとだえたラバウルは孤立したままだった。ラバウルは補給が無い中、自活可能な体制を作り上げ終戦までラバウル基地を維持した。今村の軍政の確さだった。今村のもとに皆がまとまって生き延びた。話はここからが本番で、この本の大半も終戦後のラバウルでの戦犯収容所での今村のエピソードが占めている。

 今村は、戦犯収容所に送られて1年後、現地での戦後処理の動き出しを確認したあと、「全ての戦犯の責任は総大将の自分にある」として自死をはかる。しかし、飲んだ毒薬は効果が切れていた。また、念を入れて首を切った小刀も頸動脈を切れるようなものでなく助かってしまう。小刀は所持品検査で見つからないように隠し持っていた手製の小さなものだった。重症をおいながら死ねなかった今村は、自分が死んで果たすことの『責任』の取り方を変えた。BC級戦犯が数百名もいて毎日のように死刑判決が出る収容所で、一人ひとりの言い分を聞き取り、弁護を考え、その筋に訴える。死刑判決が出た者は、まず今村のところに報告に来る。その死刑囚によりそい、慰め、はげまし送り出した。自身にも死刑の求刑が出ていた。すべての責任は自分にある。自分は死刑であり、他の兵は命ぜられただけだと主張するも、出てくる証拠は今村の人徳を認めるものばかり、結局、死刑ではなく懲役10年の刑になる。巣鴨に移されることを拒み、自身を死刑囚のもとに置くことを訴えて、死刑囚の刑務所に身をおいていた。それが、今村の『責任』の取り方だった。死んでしまったほうがきっと楽だと思うような神経戦(いくさだと今村は思っていた)になった。

 特攻隊で死を前にした搭乗員も、バンザイ突撃を前にした兵士も、国のために死ねと言われて気持ちを整えられるわけではない。最後は「人のために死ぬこと」と思うことで死を合理化したのではないだろうか。愛する妻のため、子のため、母のため・・・そして、命令を下した隊長のため。「この人のためなら死ねる」という思いになるのではないだろうか・・・と、思った。今村はそんな死刑囚の最後の思いを受け止める隊長だった。悩める兵たちは、今村の清廉潔白な生き方に触れ、自分も今村のように生を受け止め、死を迎え入れようと思ったのではないか。自分にできることはそのような生き方を示すことしかないと、今村も思い続けていたのではないか。ふと、そんなことを感じた。

<この先はかなり内容に触れる>

 酒井伍長は、『衛生勤務者として、インド人労務隊の患者を虐待した』と訴えられ、死刑を宣告されていた。熱帯潰瘍やマラリアに罹っているインド人労務者に、貴重なマラリアの予防薬キニーネを与えると「苦い」といって捨てる者がいる。また、軍医から足をきれいに洗っておかないと潰瘍が広がるといわれ、そのことを誅しても不潔なままにしておく者がいる。そのとき、言葉があまり通じないので平手で叩いたのが、虐待と訴えられたのだ。酒井には母一人子一人で育ててくれた母がいる。今村は許されてただ一人、酒井の処刑前に立ち会っている。

「裁判のとき、私は少しもかくさず自分のやったことを述べ、そうしなければならなかったわけも申したのですが、それは認められず、インド人が私の取扱いが悪いため死んだ者がいると訴えたのが事実と判定されて、死刑を宣告されました。」
「インド人や支那人は賃金労働者としてラバウルに来たのだが」と今村が鎮痛な声でいった。「二年以上も日本軍のために働き、連合軍に敵対していたので、それを罰せられることを怖れて『自分たちはマレー半島や南京で俘虜となり、無理にここへ連れてこられた』と言い張っている。豪軍は私の抗議を無視し、彼らを俘虜であったとして裁判を続けている。さぞ、くやしいだろう。君の気持ちはよくわかるよ。」
 「はじめは私もくやしさでいっぱいで、インド人や裁判官を呪い続けましたが、入所以来、聖書を読むようになり、今はそんな気持ちも消えました。そうでありますのに・・・・」静かだった酒井の声が急にふるえを帯び、「母のことを考えますと、心が乱れます。私が刑死したのち、母はどのようにして世を過ごすだろうかと、昨夜は一睡もできず」と、すすり泣いた。
 今村は彼を泣くままにしておいた。「涙だけが、いくらかは彼の心をなぐさめるであろうから」と、書いている。
 しばらくたってから、今村が語りかけた。
 「わかるよ、君のきもちは・・・・。
 イエスでさえ、死の前夜は悲しみもだえて・・・・、またゴルゴダの十字架上では”我が神、我が神、何ぞ、吾を棄て給し”と悲痛の叫びを挙げておられる。。私はこれが本当であり、これによってイエスはいよいよ尊く、また懐しまれる。君がお母さんのことを思う度に心が乱れるというのは、これこそ、天なる父の子である人間の本当の心だ。」
・・・・今村は、聖書の言葉を引いていっしょに涙をながし酒井を受け止める。今村は、宗教者ではないが読書家で聖書や歎異抄をよく読んでおり、キリスト教も浄土真宗と同じく「罪を許す教え」だとしている。

 BC級戦犯のなかには、酒井のように「貧乏くじ」をひかされたような死刑が多い。戦後処理の一隅として、だれかを差し出さなければならなかったのだ。私の住む上越市にも「直江津捕虜収容所事件」があった。ここでも8人の所員が戦犯として処刑されている。戦後、数年経っての逮捕で、結婚したばかり、子供が生まれたばかりの青年たちだった。木の根をむりやり食べさせられたという訴状は、彼らには納得できなかったであろう。少しでも栄養をつけさえたいと牛蒡を与えたのが訴因だった。・・・話が飛んだ。

 今村は1953年に刑務所が壊されるまで留まり、東京巣鴨刑務所に移され、翌1954年に釈放になった。その後は、自らを自宅の庭に建てた謹慎小屋に幽閉し、1968年まで蟄居した。自らは軍人恩給だけで暮らし、自らを語るを良しとしない性格でありながら回顧録や戦争中の証言をたくさん出版した。その印税は、すべて戦死者や戦犯刑死者の遺族の為に用いていた。だまされていることを知りながら、与えられるものはすべて与えるという生活をおこなっていた。82歳で没した。



 


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