見出し画像

コロナに翻弄された“ひきこもり”支援 2019・12〜2021・6


 この文章は今年の2月に大阪府高槻市で障がい者支援をしている「やまと茶房」で発行している書籍「コミキャン文庫 命を革める(あらためる)」に寄稿したレポートを加筆修正したものです。オリジナルのものはやまと茶房に問い合わせれば手に入るかと思います。

 コロナ禍が始まって約1年半。その間の僕のひきこもり支援の試行錯誤をつづっています。もしよければご一読ください。

 コロナが始まって、誰もが感染しない、させないように巣籠もりを始めました。事実上のひきこもり状態になる人が激増しました。

 いっとき、コロナ禍の生活においては、ひきこもりは部類の強さを発揮するという話も出たかと思います。しかし、一年半コロナ禍が経過して振り返ると、必ずしもひきこもりはコロナ禍の巣籠もり生活に強くはない。むしろ、コロナ禍のストレスにかなり脆弱な一面もあったのだと思えるようになりました。

 コロナ禍、およびコロナ後のひきこもりを襲う危機については、予見できる範囲内ですが、この後に機会を見つけてレポートかCVNちゃんねるで報告したいと思います。

※本文ではプライバシーの保護のため、本人とわからないように工夫しています。しかし、文章の主旨や内容の骨子は何も変わっていません。

<中国福建省・アモイにて>

 世に新型コロナが広まり始めた頃、2019年の12月末、僕は中国福建省の廈門(アモイ)にいた。

 ピースボートがちょうどアモイに寄港したのだ。僕は水先案内人としてピースボートに乗っていて、洋上フリースクール(グローバルスクール)の先生のようなことをしていた。生徒には何人かのひきこもりの若者がいた。

 今から振り返ると、その頃にはすでに新型コロナは発生していた。新型肺炎(コロナ)の噂は、ちらちら耳の片隅にひびいてきていた。しかし、その頃の僕はせいぜいSARSやMERSと同じようなものではないか、とたかをくくっていた。

 SARSの時もMERSの時も、僕はたまたまひきこもりの若者と現地を訪ねていた。SARSの時は台湾。MERSの時は韓国だった。台湾ではマスクが枯渇し、ブラジャーを半分に切って、それに紐をつけて、マスクがわりにしている人を何人か見かけた。僕とひきこもり君は、マスクをつけずに悠々自適に台湾を旅していた。

 だから、今回もそんな程度だろうとたかをくくってしまったのである。

 幸い、中国からの乗船客に新型コロナに感染していた人は見られなかった。ピースボートは無事、アモイを出航し、南太平洋をめぐる旅へ出発した。僕は2週間ほどピースボート に乗船し、インドネシアのバリ島で途中下船した。数日後、日本に帰国したのである。

 しかし…

 やがて、ピースボートと同様の外国籍のクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」で新型コロナの感染が蔓延。大勢の人たちが亡くなったのは記憶に新しい。

 僕の乗船していたピースボートだが、せっかく南太平洋の国々に立ち寄るはずだったのが、少なからぬ国で寄港禁止の憂き目にあってしまった。日本の横浜に戻ったのはたしか2月だったのではないか。ダイヤモンド・プリンセスがコロナ騒動の渦中にあるその時で、大きな注目を浴びてしまった。ネット上では、アンチの人たちが煽ってピースボート批判を繰り返していたようである。

 そういう意味では、大変な航海だったと言える。よく乗り切ったものだ。スタッフや責任者の人たちの艱難辛苦には敬意を表したい。

 そんなピースボートに乗っていた、僕がふだん面談していたひきこもりの若者もたくましくなって帰国した。

 トラブルはときに若者を大きく成長させることがある。

 その後、彼はなんとガールフレンドを作ることに成功したのだから!

<タイ国境に近いミャンマー・コートーンにて>

 若者たちを乗せたピースボートが日本に帰港した頃、僕はやはり若者とともにミャンマーのコートーンの町にいた。タイとの国境に位置するミャンマーの南端に近い交易都市だ。

 タイのラノーンの町の港を数人乗りの小舟でインド洋・アンダマン海に漕ぎ出して2時間弱。ようやくコートーンに着く。ここでは珍しいことに、出入国のスタンプを洋上の小島で行う。小島と言っても、ちっちゃな事務所が据えつけられただけの、ほとんど岩礁だ。こんな入国風景は珍しく、ほとんどのひきこもり君は目を丸くして驚くことになる。

 いい経験だ。

 問題はその後に起こった。

ここから先は

3,439字

¥ 300

サポートしていただければ幸いです。長期ひきこもりの訪問支援では公的な補助や助成にできるだけ頼らずに活動したいと考えています。サポート資金は若者との交流や治癒活動に使わせてもらいます。