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〈音楽/言語〉の〈脱構築〉

1.〈根源〉,〈差延〉,そして〈戯れ〉

 気付けは,前回の投稿からだいぶ時間が空いてしまった。今回の投稿は,前回の投稿の続きとなるので,前回の投稿をまだお読みでない方は,下記の投稿を是非ご高覧いただければ幸いである。

 フッサールの思想は,はじめに〈根源的直観〉があり,それを〈言語〉が写し取るという構図であった。しかし,デリダはこの根源的とされる〈意味〉が,すでに〈言語〉によって浸蝕されていると主張する。デリダは,『声と現象』の中で次のように述べる。

こうしてついに──フッサールの明確な意図に反して──Vorstellung〔表象〕そのものを......反復の可能性に依存させ,また最も端的な Vorstellung〔表象〕である現前化(Gegenwärtigung〔現在化〕)を,再 - 現前化(Vergegenwärtigung〔準現在化〕)の可能性に依存させるに至るのである。反復から〈現在 - の - 現前性〉を派生させるのであって,その逆ではない。(デリダ『声と現象』)

 また,デリダは,幾何学者を例に挙げて,次のようにも述べる。

たとえば「原 – 幾何学者」は,限界まで進んで,思考の中に純粋な幾何学的対象の 純然たるイデア性を産み出し,ついでその伝達可能性を話す言葉によって保証し,最 後にそれをエクリチュールに託さなければならないのであるが,そのエクリチュールの助けを借りて,われわれは根源〔起源〕の意味を反復する,つまり意味のイデア性を創出した純粋な思考を反復することができるようになる。(デリダ『声と現象』)

 ここでいう〈表象〉や〈現前〉とは,「現象学的な判断中止」によって見出された〈根源〉としての〈意味〉を指す。そしてデリダは,この〈意味〉,すなわち〈現前〉が最も根源的なのではなく,むしろこの〈意味〉としての〈声〉,すなわち「話し言葉」を正確に模写した「書き言葉」による〈再現前〉が,何度「反復」しても等しい〈意味〉を 持つという「可能性」に依存する形で,根源的な〈意味〉となり得ているというのである。このことを図示すると,以下の図のようになる。

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 ここでデリダは〈差延〉という概念を持ち出す。〈声〉の根源としての〈意味〉は, 実は純粋な〈起源〉ではなく,すでに〈声〉,すなわち〈ことば〉による再現作業を内包しており,それによって〈根源的直観〉との〈同一性〉から常にズレを生じる。このようなズレを,デリダは〈差延〉と呼んだ。そして,この〈再現前〉が,何度「反復」 しても等しい〈意味〉を持つという「可能性」に依存している時点で,「現象学的還元」 による「純粋意識」の抽出は不十分なものだと批判した。

 さらにデリダは,この〈言語〉の再現作業から生じる〈差延〉によって,〈同一性〉 から常にズレを生じるという観点から,〈現実/言語〉という二項対立のどちらが先でどちらが根源かという問いを,いわば無限の〈差延化〉によって放散させたのだった。

  デリダは,この〈差延〉による永遠とズレを生じさせる活動を〈戯れ〉 と呼び,『根源の彼方に グラマトロジーについて 上』の中で次のように述べる。

超越論的な〈意味されるもの〉の不在は戯れと呼ぶことができようが,この不在は戯れの無際限化(illimitation)であって,つまり存在論=神学と現前の形而上学との動揺である。(デリダ『根源の彼方に グラマトロジーについて 上』)

 形而上学は,「超越論的な〈意味されるもの〉」,すなわち「世界」を俯瞰する〈神〉のようなものを〈根源〉として追求してきた。しかし,デリダは〈戯れ〉という言葉から,その不可能性を導き出した。こうしてデリダは,この〈差延〉と〈戯れ〉という概念によって,〈現実/言語〉という二項対立の根源の問い,すなわち近代哲学の二元論の難問を放散させたのだった。その上で,デリダは次のように述べる。

 だから残されているのは,現前性の輝きを代補するために語ること,廊下に声を響かせることである。声と響きとは,迷宮の現象なのである。それが,声のケースである。現前性の太陽に向かって上昇する声は,イカロスの 道 なのである。(デリダ『声と現象』)

 「声」と「響き」とは,それぞれのギリシア語の語源から「発された音声」「聞こえた音声」の意を指すが,デリダはこれを「迷宮の現象」と描写し,フッサールの現象学を形而上学的としながらも,それを再評価した上で「〈声〉の対話」を続けていった。そして,〈差延〉や〈戯れ〉などの概念から,「書く言葉」やテクストの読解の問題へと進んでいった。

 こうしたデリダの〈脱構築〉によって,これまでの世界概念ともいえるヨ ーロッパの〈根源〉を一旦白紙撤回し,〈理性〉,すなわち「ロゴス」や〈認識〉の可能性および不可能性について追究したのであった。

2. 音楽教育における〈声〉の対話

 デリダのフッサール現象学に対する指摘は,〈音楽〉などの非文学的芸術一般の非言述的な意味作用の諸形式にも適応される。〈音楽〉には,どのような〈対象〉に向けても「イメージ」や「感情」といった,合図することのない〈意味〉の資源が内蔵されている。しかし,フッサールの現象学では,そのような形成の意味作用の資源を否定せず,ただそのように形成されたものに対しては,意味を備えた表現という,つまり対象への関係としての理論という形式的性質だけを拒絶することになるという。つまり,〈音楽〉に内蔵されている〈意味〉の資源を〈音楽〉の〈根源〉だとみなし,そこに鳴り響く〈音楽〉そのものは存在しないのである。

 この指摘は,初回の投稿での今田の主張と非常に親和性がある。デリダの指摘の通り,〈音楽〉 に内蔵される「イメージ」や「感情」といった,合図することのない〈意味〉としての〈言語〉が,〈音楽〉における〈根源〉とはならない。むしろ,そこから生じる〈差延〉 によって,〈音楽〉そのものの「形式的形質」までも拒絶してしまう。

 では,このような事態を避けるために,〈音楽〉において,そして,音楽教育において,デリダの〈脱構築〉を視座としつつ,どのような「〈声〉の対話」を追求していけばよいのだろうか。このことについて,初回の投稿に於いて少し触れたS.ソンタグの『反解釈』と,M.ガブリエルの「新実在論」の思想を援用しながら,次の記事で検証していく。


Yuki ISHIKAWA

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