愛の商人~魔女~ 序章/第一章

序章 光

 真っ白な世界。この色を白と呼ぶことを、僕はついさっきまで知らなかったわけだけど。遠い昔、ひそかに夢見たはずのこの光を、今の僕は呪います。僕に与えられたこの光は、僕の大切な人を奪う光だから。悔しいほどに綺麗なこの色は、大好きな人が消えていくときの色。

 周りを見渡す。白い光は次第に晴れて、ついさっき開かれたばかりの瞳は、本当の現実を映しだす。燃え落ちた木々。まだあちこちに残る炎の残骸。それから五感が少しずつ、現実を立体的にしていく。乾いた地面の感触。肉の焦げる臭い。たくさんの人間の足音。だけど誰一人として、口を開こうとはしない。処刑の後はいつもそうだ。人々は粛々と、元の日常に戻っていく。
 醜い。あまりに醜い。こんなものが、あの人が見ていた景色だったのだろうか。こんな絶望的な世界で、あの人はどんな思いで笑っていたのだろう。それを知ることはもう二度とできないのだと、新たな現実が僕を締め付ける。

 どうして。悲しいはずなのに。もう涙を流すことができるはずなのに。意味のない空洞はもう塞がっているはずなのに。あなたがいなくなって初めて、僕は泣くことができると思ったんだよ。ちょっと楽しみにしてたのに。あのときあなたの頬をつたったあの液体は、僕の頬には降りてきてくれないんだね。
 ……ねえ、分かる?僕はあなたになったんだ。こんな状態で時間を止めてしまったあなたに、今の僕の気持ちなんて伝わるのかな。

 せめて最後に少しだけ、あなたを思い出すための時間をください。僕は必死で願いながら、大好きな人の残骸に手を伸ばす。



 第一章 ヒカリ

「あなたがそれを望むなら、僕が叶えましょう。ただし、相応の対価と引き換えに。」

「ヒカリ、お疲れ様。」
 ナナシの声がした。僕たちはもう何年も、同じことを繰り返している。依頼人が来る。僕はいつも同じ言葉を吐いて、願いを叶える。対価を受け取る。依頼人はそそくさと遠ざかっていく。夜になると、ナナシが僕に声をかけて、一日が終わる。そんな日々を何度か繰り返した後、僕たちは新しい町を目指して旅に出る。
 「明日、出発しよう。」
 ナナシは突然言った。いつものことだ。今度の町でも、愛の商人の噂が広まりだしていた。次の魔女狩りの夜、僕たちは町を出る。目指すのは、愛の商人の存在を知る人間がいない次の町。ナナシが決めた、僕たちの身を守る方法だった。

 愛の商人。これが、僕の仕事だ。人々の願いを叶え、対価として依頼主の大切なものを受け取る。対価は願いの価値に見合ったものを、叶った願いの分だけ。与えられた幸せは、それと同じだけの不幸を連れてくる。それでも僕は願いを叶える。それが、父から引き継いだ僕の仕事だから。
 多くの人々は僕らを、魔法使いや魔女の類だと考えていた。だから僕らは、一つの町に長く留まることはしない。ただでさえよそ者は、魔女狩りの対象になりやすい。不思議な力を持つ愛の商人ともなれば、その危険は計り知れなかった。先代だった父が死んだ日、僕たちが身をもって学んだこの世界の仕組みだ。

 あの日のことは、今でも時折思い出す。僕たち姉弟と父が暮らす家に、容赦なく押し掛けて来たたくさんの大人たち。その少し前から、父の考えが自分の中に流れ込むような、まるで、父と精神を共有しているかのような、そんな気がしていた。そして父が命を失う直前、僕ははっきりと確信することになる。次の愛の商人は、僕なんだ、と。あの日の僕はいやに落ち着いていて、一切の躊躇もなくその事実を受け入れた。しかし、今思い出すとまるで他人事のようだ。あの日の自分を追体験する現在の僕は、怖くて怖くて、これから起こる全てが恐ろしくて仕方なくて、震えていた。

 「ヒカリ。」
 ナナシが僕の手に触れた。それからゆっくりと、僕の手に握られた笛を取り上げる。
 「また思い出してたの?」
 「僕…震えてた?」
 我に返り、全身に冷や汗をかいていることに気付く。笛は手離したものの、握られた拳の力が抜けない。爪が手のひらに刺さる、僅かな痛みを感じた。
 ナナシがもう一度、僕の手に触れる。握られた拳に重ねるように、優しい指が手の甲をなでる。
 「大丈夫。私がいるから。私がヒカリを守るから。」
 ナナシの言葉も、その声に感じる強い意志も、昔からずっと変わらない。あまりに芯の強い、真っすぐなナナシの心は、それ故に本当は脆く折れやすいことを、僕は知っていた。知っていながら僕は、いつだってナナシを不安にさせる材料だった。僕がナナシを不安にさせればさせるほど、ナナシの心は強く張り詰めて切れそうになるのが分かってしまう。
 「大丈夫だよ、僕。怖くなんかない。」
 嘘だった。本当は怖くてたまらない。そして僕は、その嘘がナナシには通用しないことも分かっていた。しかし僕がそれを分かっていることでさえ、ナナシには分かっていた。
 ナナシは何も言わず、笛を僕に返した。
 「おやすみ」
 そう言ってナナシは布団に向かう。その背中がかすかに震えているのは、いつものことだった。僕たちは同じだ。ナナシもずっと震えていた。だけどそれを僕に隠しているつもりで、精一杯に強がってみせる。震える僕を励ますように、ナナシはいつも、強い言葉をかけてくれるのだった。

 ナナシが眠った後も、僕の夜は終わらない。愛の商人になってからずっと、眠れない夜が続いていた。どれだけ長い月日を眠らずに過ごしても、不思議と疲れることはなかった。
 夜は静かだ。実際に聞こえてくる音はとても少ない。多くの人間が眠りにつき、風の音や虫の声が聞こえてくる。

愛の商人になる以前は、遠くの音に耳を澄ますことが好きだった。町から離れた森の中に住んでいた僕は、町から聞こえてくる多くの音を昼夜問わず聞いていた。賑やかで平和な昼の音は、たくさんの人々が生活する音。それは僕達が暮らす家の音とあまり変わらない。夜の音は、静かで穏やかな音。どんなに遠くまで耳を澄ませても、聞こえてくるのは自然の音ばかり。自然の音を聞きながら眠るのは心地よかった。もうずっと長い間忘れたままの、穏やかで平和な眠り。
だけど魔女狩りの夜だけは違った。たくさんの悲鳴と怒鳴り声が混ざり合う、騒がしい音。そんな音が聞こえてくる夜は決まって落ち着かない。魔女狩りが終わった後の恐ろしいほどに静まり返った時間は、それ以上に僕の心を騒がしくさせた。
そんな過去の日々が懐かしくなるほどに、今はもっとずっとたくさんの音が聞こえている。実際の音にはならない、たくさんの人達の願いの声。魔女狩りが広まれば広まるほど、願いの声は悲痛なものになっていく。

 「明日にはまた魔女狩りが起こる」
 「次の犠牲は誰だろう」
 「自分だけは捕まりたくない」
 「死にたくない」
 「少しでも孤立した人間はすぐに狙われる」
 「だからみんなと同じでいなくては」
 「だけど、それでも狙われたらどうしよう」
 「最近この町に、愛の商人が来ているらしい」
 「対価を払えば、魔女狩りから逃がしてくれるらしい」
 「誰を犠牲にしても自分だけは助かりたい」
 「彼らに依頼しよう」
 「だけど、彼らこそよそ者じゃないか」
 「次の魔女狩りは彼らにしよう」

 そこまで聞いて、耳を塞いだ。耳を塞いだところで、彼らの願いの声は容赦なく聞こえてくる。愛の商人である僕にしか聞こえないその声は、僕の耳を通り越して直接脳に焼き付いた。愛の商人になる以前から聞こえていた、悪意の声。愛の商人になってからは、願いの声と共に一層騒がしく聞こえてくるようになった。自分本位な願いと悪意の声に満たされた世界。

 ふと、ナナシの寝息が聞こえた。思わず笑みが零れる。僕が幼い頃から、ナナシはずっと僕の傍にいた。ナナシはいつだって僕を守ろうと必死だった。折れそうなほど真っすぐな心と言葉で精一杯強がって、ナナシはいつも、僕の姉であろうとしていた。だけどナナシは小さな人間。愛の商人としての僕の力に巻き込まれただけの、愛おしいほどに小さな人間だ。
 ナナシは、僕が夜中起きていることを知らない。昼間僕の隣で神経をすり減らしているナナシは、疲れのためかいつもすぐに眠ってしまう。その寝息だけは、昔と変わらず僕に安らぎをもたらしてくれた。町から聞こえる悪意の声も自分本位な願いの声も全て無視して、僕はナナシの寝息だけに意識を集中する。等間隔で聞こえてくる優しい音。

 「どうか、ヒカリが無事に明日を終えられますように」

 それは、ナナシの願いの声だった。毎晩毎晩全く同じ言葉が、一字一句変わらずに僕の耳に届く。他の誰の願いよりもはっきりと。この音に耳を澄ませていれば、ナナシの寝息だけに身を任せていれば、彼女の見ている夢まで分かるような気がして。この時間だけは、愛の商人になった今でも変わらない幸せなひとときだった。この音だけは、僕の愛する姉の声だけは守りたい。愛の商人の力では叶えることができない、僕自身の願いだ。

 「たすけて」

 ふいに、全く別の声が耳に飛び込んできた。町から聞こえる音ではない。どこか遠くの場所、おそらく子供の声だ。あの日の僕とナナシくらいの年頃の、幼い子供の声。あれはきっと、僕達が次に行く場所から聞こえてくるのだった。
 夢の中から現実に引き戻されたような気分だった。一旦戻ってしまうと、もう止まらない。さっきまで無視していた声がまた一斉に聞こえ始める。たくさんの悲痛な願い。どれだけ自分本位でも、ひとつひとつが必死の願いなのに。愛の商人はちっぽけで無力だ。どんなに遠くの声が聞こえても、僕に叶えられるのは目の前にいる誰かの願いだけ。僕は、さっきナナシに返された笛を握りしめる。手に馴染んだ細い木の感触に、まだナナシの温もりが残っているような気がした。

 ナナシ。また願いの声が聞こえるよ。僕は行かなきゃ。みんなの願いを叶えなきゃ。ナナシは、傍にいてくれるよね?まだ僕と一緒に、新しい場所へ行ってくれるよね?だってそれが、ナナシが払うべき対価なんだから。

 ナナシの寝息は、僕の問いかけに対する返事のように一定のリズムを繰り返した。「何も変わらないよ。ずっとこのまま、ずっと一緒だよ」と言っているかのようだった。心地よいその音をそっと耳から追い出して、僕は遠くの声に耳を澄ませる。ここから先は僕の仕事だ。僕とナナシを、新しい場所へ導かなくては。愛の商人を呼ぶ願いの声に、一刻も早く辿り着かなくては。長い夜、残り全ての時間を、僕はその声の主を探すことに費やした。


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