愛の商人~魔女~ 第二章:兄妹

 「ねえ、あたし、悪い?」

 少女が言った。その視線の先にいる少年は、少女の腕の中にいる小さな身体を見つめている。少年は、少女の問いに答えることができないでいた。「キルは悪くない」その一言が、少年にはどうしても言えなかった。

 「お兄ちゃん。」

 少女がまた口を開く。固まり始めた血だまりが不快になったのだろう。抱えていた小さな身体をごろりと床に転がして、少女はしきりに腕をこすっていた。
 少年は息を詰めた。床に転がった小さな身体と、目が合ったのだ。まだぐにゃりと柔らかい小さな身体は、その目を大きく見開いたまま、呼吸を止めていた。少年はそっと近づき、小さな身体の瞼を閉じてやった。少女が乱雑に扱ったその身体を優しく寝かせて、少年は少女の目を見つめた。

 「まず、話してくれ。何があった?」

 少年はやっと口を開いた。何を聞いたところで、少女の論理が通らないのは分かっている。どんな理由があったとしても、少女の行為が正当化されることはあり得ない。何度も繰り返したこのやり取りをまた繰り返さなければならないことに、少年はとうとう疲れ果てていた。

 「本が、読みたかったの」

 少女は答えた。血だまりの中に、一冊の本が落ちている。少女が昔から気に入っていた童話だった。

 「貸してって、言われたの。でもあたし、まだ読んでたの。それで嫌だって言ったんだけど、それでも貸してって言うの。それで、」

 少女は手元を見る。やはり血だまりの中に、はさみが転がっていた。

 「また、やったのか。そのはさみで。」
 「そう。刺した。」

 少女は悪びれる様子もなく言った。その表情は、微かに笑っているようにも見えて、少年はひそかにぞっとした。

 これが、キルの悪い癖だった。気に入らないことがあると、すぐ暴力に頼ってしまう。キルは怒るということをしない。いつも無表情のまま、ときには笑顔さえ見せて、同じ施設の子供達を傷つけた。大人達はキルを病気だと言った。重い精神の病だと。施設の他の子供達は、次第にキルを恐れ、避けるようになった。唯一の例外は、キルの兄である、アルだけだった。

 「ねえ、あたし、悪い?」

 キルは繰り返した。床に寝かされた小さな身体に目を落とす。施設の子供達の中では珍しくキルを慕っていた幼い少女、エメルの遺体。キルが人間を殺めたのは、これが初めてだった。

 いつかはこうなる。アルには随分前から予想がついていた。初めは、些細なことばかりだった。素手で友達を殴ったり、本で叩いたり、突き飛ばしたり。いかにも子供の喧嘩といったような行為ばかりで、大人達も他の子供達も、ほとんど気にかけなかった。
 それが大きな騒ぎになったのが、キルが10歳のとき。キルはそのとき初めて、喧嘩に刃物を使った。相手の少年は顔を血まみれにしてのたうち回り、その後、失明したことが分かった。その事件があってから、キルは刃物に強く惹かれるようになった。キルはいつでもはさみを持ち歩き、大人達がそれを取り上げようものなら、キルは容赦なくはさみを刺した。施設のほとんどの大人達がキルの手によって怪我をし、それからキルは「病気の子」と呼ばれるようになった。それでも、キルが人を殺めたことは一度もなかった。たった今この瞬間までは。

「大丈夫。大丈夫。」

 長い沈黙の後、アルはやっとの思いでそう繰り返した。それが妹に向かってかけた言葉だったのか、それとも自分自身に対してだったのか。アルには判断ができない。

 「大丈夫。」

 アルはまた、小さく繰り返した。震える手で、血だまりの中に落ちたはさみを掴もうとする。途端、キルの視線が素早く動いた。次の瞬間、はさみはキルの手に握られていた。
 がたん。ドアの外で、大きな音がした。狭い部屋の入口は、ありったけの家具で塞がれていた。血まみれのキルを見つけてすぐに、アルが動かしたものだ。アルの身体は、無意識のうちに動いていた。あのドアの向こうにいる大人達を、キルに触れさせてはいけない。アルが何よりも先に、半ば直感的に悟ったことだった。
 がたん。再び音がする。キルは、はさみの先をドアの方へ向けていた。がたん、がたん、がたん。音が強くなる度に、キルの指に入る力も強くなる。

 アルは、そっとキルを抱きしめた。
もうここにはいられない。アルは悟っていた。アルはキルを恐れていたが、それ以上に彼女を愛していた。この病的なまでの暴力性を秘めた妹を、アルは救いたいと願っていた。
 いつか、どこかの誰かが奇跡を連れてきて、キルが救われる日が来ますように。アルはずっと祈っていた。どうか、誰か助けてください。僕達兄妹が普通に生きられるよう、どうか奇跡を起こしてください。

 「キル。」
 「お兄ちゃん。ねえ、あたし、悪い?」
 「逃げよう。この施設から出よう。」

 アルは立ち上がった。血だまりのべたつきが、裸足に絡まる。グロテスクなこの感触も、息苦しい施設から抜け出すための第一歩だ。アルは妹の手を引き、立ち上がらせた。握られたはさみを気にする必要はない。キルはこれまで、アルにはさみを向けたことは一度もなかったから。アルの手に引かれながらそれでもキルは、握ったはさみを手放さなかった。

 数分後、兄妹は森の中を走っていた。

 どこに向かっているのかも分からない。ただ、救われたかった。妹の背負いきれない罪。それを庇った兄の罪。裸足の兄妹は、深い森の中を走る。二人の行く先は見えない。夜の森は、どこまでも真っ暗だった。それでもアルは走り続けた。キルは黙ってついてきた。五つ年の離れた兄の全力疾走に、健康的とは言えない華奢な身体の少女はぴったりとついてきた。息を切らせる様子もない。はさみを握った手は、ひんやりと冷たかった。キルの手はいつも冷たい。アルにはそれが、キルが正常な人間でない証拠のように思えてならなかった。
 足の裏に小石が刺さった。小さく鋭い痛み。腕も顔も、木の枝にぶつかって傷だらけだった。暗くてよくは見えないけれど、きっとキルも同じだろう。このまま森を走り続ければ、いずれ疲れて動けなくなることは明白だった。それは終わりの時を意味する。アルは焦っていた。
 二人を追って来ていたはずの施設の大人達は、とっくに見えなくなっていた。そもそも彼らに、キルを捕まえる必要などないのだ。「病気の子」がいなくなって、今頃は喜んでさえいるかも知れない。それは二人にとっても喜ぶべきことだった。それでも、アルは走る速度を緩めなかった。少しでも遠くへ行きたかった。血だまりの光景、ぐにゃりとした遺体の感触、何もできずにただ茫然としていた時間。その全てから、アルは逃げ出そうとしていた。

 キルは、何を考えているのだろう。アルは横目でそっとキルを窺う。彼女の中に罪悪感というものが少しも生まれていないことは明らかだ。少なくとも表情を見る限り、キルの精神はいつだって穏やかだった。アルに手を引かれながらぴったりとついて走るキルは、今も無表情だ。
 一瞬、二人の目が合う。キルの目元が、すっと細くなった。口の端も僅かに上がった気がする。笑顔と呼ぶにはあまりに薄い表情の変化だった。アルはすぐに前方に視線を戻したが、一度気づいたキルの視線は、簡単には無視できなかった。キルはずっと、アルを見つめながら走っていたのだった。前も、足元も、彼女は見ていなかった。繋いだ手が時折引っ張られていたのは、キルが躓いたときの衝撃だったのだ。

 ふいに、アルは立ち止まった。突然の停止に対応しきれなかったキルの身体が、前方につんのめる。アルはそれを受け止め、再び前方に目をやった。

 光。いくつもの光。

 突然、森が終わっていた。二人の目の前に広がっていたのは、大きな町だった。森が終わったすぐそこに、町の入口があった。時刻は深夜。にも関わらず、たくさんの声が響いている。そのほとんどが、怒鳴り声と悲鳴だった。その中でもひときわ大きい、もはや意味をなさない言葉の叫び。おそらく女性のものだ。まだ二人の視界には入らないその女性は、この世の全てを呪うかのように泣き叫びながら移動しているようだった。その声は、段々と町の中心部へ。叫び声の周りを、怒鳴り声と歓声が取り囲んでいく。無数の明かりが揺れ動き、次第に一か所へ集まっていった。
 アルはとっさに身を隠した。施設で育ったアルにも、この状況が意味するものは理解できた。この時代、最も恐れるべき現象。魔女狩りだ。

 町から漏れてくる光が、二人を薄く照らした。闇の中に浮かび上がったキルは、体中に小さな傷を作っていた。むきだしの腕、足、無表情の顔にも。アル自身の身体も、同じような状態だった。走っている間は無視していた痛みが、今更のように響いてくる。
 アルはその場に座り込んだ。痛みと共に、激しい疲労感がアルの身体を襲っていた。

 「いたい。」

 キルが、まるで今初めて気づいたかのように呟いた。腕の傷口を爪でひっかいている。傷が広がり、血があふれ出した。アルは慌ててキルの手を掴み、ひっかくのをやめさせる。

 「ごめんな。」

 謝った理由は分からない。

 「もう少しだけ、我慢できるか?」

 キルは小さく頷いた。アルは再び町の音に耳を澄ます。女性の悲鳴はすでに、断末魔のそれに代わっていた。苦しそうな嗚咽が、途切れ途切れに聞こえてくる。炎の燃える音が、妙に大きく響いていた。しばらくして、人々の足音。魔女狩りが終わり、それぞれの家に帰る足音だった。それからさらに時間が経ち、町はほぼ完全に静かになった。それでも二人は、しばらくその場を動かずにいた。

 どれくらいそうしていただろう。既に空が白み始めていた。辺りが明るくなった頃、アルはようやく立ち上がった。

 「行こう。」

 アルがそう言ったのと、ほとんど同時だった。アルの耳が、こちらに近づいて来る足音を捉えた。アルはとっさに周囲を見回す。身構える間もなく、足音の主はアルの前に立っていた。

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