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最近自宅でお経をとなえ始めた

仏教の教えを現代語で説いた本や記事を読んだり、お坊さんのお話を聞くことは少しずつ身近になってきている。そして最近、お経を声に出して読むことも、ほんの少しずつだが日常になってきた。
お経は漢字で書かれているので、わからないなりにほんのりと意味を感じ取ることができるのが楽しい。

たぶん20歳くらいのときに、実家の菩提寺(青森の曹洞宗のお寺)から届いた曹洞宗のおつとめの経本をなんとなく読んだり、何度か参加したことのある坐禅会で般若心経をとなえたりしてはいたが、日常的にお経を読むことはなかった。それがぽつぽつと、日常でも読んでみたいなという気持ちになってきたのだ。数日に一度くらいではあるが、朝仕事を始める前にお経本を手に取って読んだりしている。

きっかけは天台宗のお寺のお護摩に参加するようになったことだと思う。そこで初めて知った「妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈」というお経がある。「念彼観音力」というフレーズの前後に、なにかの災厄に見舞われて、その危機を回避できたような文言がたくさん並んでいる。観音様の力でこんなことが切り抜けられるよ、こんなよきことが起こるよ、という意味なのだろうか。そちらのお護摩には行ける限り毎月参加するようにしていて、このお経を何度もとなえていたら、だんだん心強い感じがしてきた。

お坊さんのように力強い声でとなえることができないなりに、どうやったらしっかりとなえられるのか試行錯誤してみたり、日によって声が変化するのを感じられたりするのも楽しい。合唱のように、お坊さんやほかの檀信徒の方とリズムや音を合わせて声が溶け合っていくのを感じるのも楽しい。お経って一本調子で長くてつまらない、みたいなイメージがあったのだが、お経をみんなでとなえるって楽しいのか!と感じた。

浄土真宗のお寺でお昼のおつとめに参加したり、オンラインの講座で講師の方々やほかの参加者の方と一緒にお経や南無阿弥陀仏をとなえることがあるのも、お経を普段読むようになったきっかけだったと思う。
それ以来、南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経、となえるとどんな感覚の違いがあるのかを試してみたりなど、とにかく仏教の大切な言葉を口に出してみることのよさを少しずつだが感じて楽しく思うようになった。お不動さまの真言(お護摩のときに繰り返しとなえる)が日常でふと頭に浮かんで口ずさんでみたり、仕事中だらけてしまってきたときに意識的にとなえることも出てきた。
目で見る仏教、耳で聞く仏教、という受動的な仏教に加えて、能動的にかかわっていく仏教、というものが自分の仏教ライフに加わってきた。すると急に立体感が出てきたというか、頭で考えることと体で感じて実践することとの両輪が、トミカのタイヤくらいの小さい両輪ではあるが、手のひらに舞い降りてきたような感じがしている。自分にとっては、坐禅以上に取り組みやすい仏教の実践方法かもしれない。これを大事に育てていこうと思う。

仏さま(仏像など)に向かってお経をとなえるのは、自分がお経をお供え?しているような感覚であると同時に、仏さまがこちらに向かって説法してくださるのを4Dで再現する行為でもあるのかもしれない、と思った。わずかにではあるが、自分の体が再生装置となって、仏さまがリアルに目の前に現れてくる感じがしたのだ。そしてその感覚は、仏さまの正面で面と向かっている時に最も強く感じられるような気がする。今度お坊さんにお会いしたらそんなこともお尋ねしてみたいと思った。

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