信頼と信仰

お護摩に通うようになって1年が経った。お寺でお坊さんが火を燃やしておられる、あのかっこいい儀式である。
通ううちに「火を見ていると心が落ち着くな」というレベルではなく、もっと深いところまで心身、特に心が変わったと感じるので、そのことを書きたいと思う。

一番感じるのは、小さな知恵のようなものが湧きやすくなったことだ。
例えば台所で、「なんで私はこの調理器具をこんな使いにくい所に置いていたんだろう?」とふと気づいて置き場所を変えるとか。気づきというにはあまりに小さすぎるけれど、そういう小さな滞りがスムーズになるような考えが明らかに頻繁に湧くようになった。人と話すときの言葉選びや声をかけるタイミングなどにも、同じような変化が少しずつ起きていると感じる。物事を面倒くさいと思う頻度も著しく減ったし、シンクの中に大量の洗い物が残っていてもあせりは感じなくなった。じゃがいもの泥を洗い落として料理に使う頻度も確実にアップした。やる必要があることや、やらずに溜め込んでいることが山ほどあるが、いつか終えられるしできないことがあったらその時怒られればいい。そんな気持ちになってきた。

そういう変化が、誰にとっても同じように訪れるものなのかどうかはわからない。仏教以外の要素も関連しているはずだし、おそらくだけど、数ある仏教の修行や実践方法のうち、たまたまお護摩が自分の体質に合っていたというのもあると思う。仏教には一つの言葉を繰り返し念じたりとなえたりする方法やいろいろな瞑想があるけれど、自分にその器がなかったり、体力的・体質的に難しくて、あこがれるけれど実際やってみると続かなかったりするものもあった。単に怠惰で足を向けていないところもある。でもなぜかお護摩には初めて参加したときからものすごく深いところで心が揺り動かされる感じがあり、以後も形を変えながら、毎回なにかしらのよい働きのようなものを受け取り続けることができている。

お護摩では、お坊さんがさまざまなかっこいい動きをされながら、火にいろんな植物などのお供物をくべていかれる。だんだん火が大きくなっていき、そこに我々が願いを書いた護摩木(ごまぎ)というお札もくべられる。その願いがお坊さんを通じて仏さまに届けられるというものらしい。
我々はその場に立ち会い、一緒にお経や真言(しんごん。中国語でも日本語でもないインドの呪文のようなもの)をとなえながら、その願いを一心に祈る。
その様を目にすることは空や海を眺めることにも似ているけれど、もっと変化があって、かっこよくておもしろい。私は食い入るようにその光景を見つめたり、お経をとなえながら意味を考えたり、つい晩ごはんのことを考えてしまったり、そうするうちに当初の願いを忘れたり、ふと湧いてきた他の願いについて思いを馳せたりしながら過ごしている。

お経の意味を一字一句お聞きしなかったとしても、漢字が読める人ならなんとなく尊いことが書かれていることはわかる。ふりがなが振られているので、小学生でも声に出して読むことができる。煙が目に沁みるが(そこも好き)、全く体を動かしてはいけないわけではないし、お護摩を受けるにあたって特別な体力や特殊な技術がいるわけではない。

ただその光景を眺めているだけでもすごくよいものを受け取れるのだと思うけど、自分も尊い文句を声に出すことによって受け取るものが想像以上に大きいと感じている。
もし自宅に不安になるような言葉を書いた紙が貼られていたら嫌な気持ちになるのと同じ理屈で、プラスの意味を持つ言葉を目にすることは、確実に心身によいものをもたらすと思う。お護摩のときにはそうした言葉をお経本で目にするだけでなく、自分でその言葉を口にし、お坊さんや他の信者さんがとなえた言葉と自分の発した声が響きあうのを耳で感じることができる。体のかすかな振動も感じる。ただ目で見ることの何倍にもなって、しかも少しバリエーションを変えながら(人それぞれの声色や微妙な発声タイミングの違いなど)、ポジティブな意味を持つたくさんの言葉を浴びることになる。意識的にテンポや声調を合わせようとしているうちに、独善的になりがちな気持ちが自然と抑えられる訓練にもなっているように思う。そして単純に、学生の頃みんなで合唱をしていたときのような楽しさもある。お経の意味がほとんどわかっていないしまだ覚えられていないため、読むたびにこの文句が好きだな、あれこういう文句もあったのか、と気づく箇所が違うのもまた楽しい。
季節や時間帯によって変わる窓の外の明るさや、だんだんと濃くなる煙の流れ、冬のお堂で感じる火のあたたかさ、夏の暑さと溶け合って体と地続きになるような火の熱さ。そういうものをただ心地よく感じているうちに、よきなにかが毎回もたらされている。それを受け取りながら、私は仏教とお坊さんを信頼しているんだなあ、と思うようになった。

私はいま、信頼と信仰のはざまにいるのだと思う。仏教の歴史や神秘性にももちろん大いに惹かれているけれど、それ以上に、もっと確実でリアルな1+1=2 みたいなものを、言葉だけではない形で受け取り、実感しているのだと思う。それが重なると神秘とか謎とか怪しいものに見えるのかもしれないが、それを一つずつ、本当に伝えようとされているお坊さんから受け取ると、神秘よりもむしろ実(じつ)の積み重ねを強く感じる。

読むだけで目がよくなる本とか、誰でも絶対おいしく作れるレシピに似ているのかもしれない。仕組みや理屈はわからなくても、その手順を踏むだけで自然と生まれるなにかを毎回受け取っているのだと思う。そしてそれを受け取れているのは、お坊さんが代々そのまま教えを受け継ぎ、ご自身の人生を生きたうえで、真摯に祈ってくださっているからなのだと思う。

でも、その信頼と並行して、自分はこうしたギフトをいったん科学や物語に変換してから受け取ってしまっているのだろうな、とも感じる。はっきり言葉でそう思っているわけではないけれど、特定の刺激がある順序を踏んで脳に入ってくることにより神経が……とか、どこかで耳にした話に無意識に翻訳して、都合よく変形させたうえでありがたさを感じているのではないか、と自分を疑ってもいる。
だから、ちゃんとお数珠をもって深々と頭を下げてお経も覚えるほど信仰心を持ってお参りされる方と並ぶことに申し訳なさを感じる。それと同時に、もし自分がそのように深く信仰する姿を見たら家族や友達はちょっと不安に思うだろうな、という思いも消せない。信仰に後ろめたさがなかった時代や環境をうらやましく思う。自分が決して入れない領域があり、そこには一生たどりつけないし、そもそもたどり着こうという気持ちを持てない人間なのかもしれない。そんなことを考える時点で、やっぱり信仰には至っていないのだと思う。

自分はなんの修行も受けていないしそんな気持ちでお寺に通っているのに、毎回こんなにいいものを受け取っていいのだろうかと思う。そして、こんなにいいものなのだから多くの人に届いてほしいとも思う。そしてこの「ありがたい」「広まってほしい」という気持ちこそが、一部の人に宗教をシューキョーと思わせてしまうものになっている面もあるのだと思う。自分がこの先どんな気持ちを抱いていくのかまだわからないけれど、少なくとも仏教はそれを信じていない人を不幸にするものではないと信じている。するとこれはやっぱり信仰なのかな?まずは何にしろ、家族や周りの人を大切にすることを忘れずにいられれば、と思う。


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