お護摩の最中に願いが変わることについて
お護摩に行ったとき、複数のお願い事をすることがよくある。一つに絞ろうと思うのだがなかなか絞り切れず、かといって世界平和とか家内安全をオールマイティな願い事として用いるのはずるいかな?という気がして、なんとか1〜3つくらいのお願い事を選ぶようにしている。
毎回不思議に思うのが、お護摩の最中に、その願いに変化が起きることだ。
護摩木(ごまぎ)という小さなお札のようなものに自分で願い事と名前を書くのだが、書いた願い事とは違う願い事がお護摩の最中に湧いてきたり、願い事の奥にある本当の願い事みたいなものが心の中に浮かび上がってくるのである。
今回もその現象が起きた。「今日はこれだけを願うぞ!」と決めていた願い事があったのだが、やはりこの人のこともお願いしておきたい、という気持ちになり、さらにそのあと少し迷って、もう一つのお願い事をした。結局、いつもの自分の最大お願い数になった。そして、3本の護摩木を手にお護摩が始まった。
お護摩のときは50%くらいの確率で涙が出るのだが、今回もそうなった。涙の理由はいろいろで、本当に助けてください、という悲痛な思いのときもあるし、ありがたいなぁ…たくさん助けていただいたなぁ…という気持ちで涙が出るときもあるし、命懸けで教えを伝えていらしたお坊様や、反対にご自身の人生をいわば犠牲にしてお寺を守ってくださった方々のことを思うときもある。
そんな時間を経るうちに、用意していた願い事が、次第に変形していくのだ。
しばらく会っていない家族や友達のことをふと思い出したり、ごく個人的で煩悩丸出しの願い事が、もっと多くの人の幸せにつながるようなピュアな感じの願いに育ったり、願い事自体は変わらないのだが、その裏にある自分の深い部分の気持ちに気づけたりする(悲しみと怒りにひそむまことの心的な)。
それ以上に興味深く思っているのが、その日のメインの願い事だったはずの願いが、もうすでに叶っていると気づけたり、そう思えたりすることだ。
今日もそれが起きて、今日はこれ一本でいくぞと思っていた願い事に関しては、平然と「絶対大丈夫でしょ」とサラッと流せたような感じがした。当然叶うと心から信じて安心できているような感じだ。二番目に心に浮かんだ願い事も、「うんうん!大丈夫!」みたいなライトで明るい感じで受け止めることができた。
ところが、ちょっと迷って最後に出した3つめの願い事を心に浮かべたとき、溺れた人が縄にしがみつく時のような切実な気持ちが湧き上がり、涙がボロボロこぼれてきた。
この現象が初めて起きた時、たまたまだったのかな?と思ったのだが、以後かなり何度も起きている。祈る→叶う という2段階ではなくて、重層的に、いろんな方向に願いが解体されて組み変わって整っていくような感じがするのだ。
以前、いつもと違うお寺のお護摩に行ったとき、お坊様ではなく我々在家の者にとってもお護摩は修行なのだというニュアンスのお話をお聞きして、なんでお願い事をするだけで私たちまで修行ができるんだろう?と思ったのだが、それはここに述べたようなことを指しているのかなあと思った。