死生観とか難しすぎる

三浦春馬さんが亡くなった時の残念さは、10日を過ぎた今も変わらずに心の中にあります。

私は人が死ぬのは悲しいです。人が死にたいって願いながら生きることも悲しい。生きたいのに死にたいと願う事も悲しい。生きたいのに死ななきゃいけないのも悲しいです。

私の鬱病が酷かったとき、常に死にたいと願っていました。生きたいのに、死にたいと願う理由がわからず途方に暮れて泣くこともありました。

だから自殺してしまう人の気持ち、ほんの少しかもしれないけどわかります。


今、私は心の底から生きたいと願っています。
今、自殺したいと願っている人も何かのきっかけで私と同じように生きたいと思えるようになるかもしれません。

それは既に亡くなってしまった方にも言えると思います。

少しの逃げ道があれば、また生きたいと思えるようになったかも、そう思うと残念でならないです。


「死んで、悩みから逃げられたのならよかったかも」「それが寿命だったんだよね」

そう考えないと生きていけないという残された人達の気持ちもよくわかります。

でも今、自殺したいと、考えている人がいたら、少し逃げ道を見つけてほしいし、逃げ道になりたいって思います。

窮地に立たされたときにどうしても「自己責任」という言葉が頭をよぎります。
他人の窮状を見て、そう言う人もいますよね。   

でも、そういう人達の逃げ場、救いの場所はあるべきだと思うし、それを作っていくのはNPOとかもあるけど、国が率先して安心できる逃げ場を作るべきだと思います。今回のコロナ等、何かの拍子に弱者になることだってあると思うし。 

死生観とか難しすぎるけど、生きてほしい、今はそう思います。

今、安楽死とか、優生論についての議論をネット上で見ることが多くて、簡単に答えの出ない問題なだけにぼんやり考える時間が増えたような気がします。ただ一つ、冗談で語るような事ではないことは私でもわかります。

「人に迷惑をかけてまで生きたくない」私もそう思うときがあります。でも私の大切な人、家族には「全然迷惑じゃないから生きてほしい」って思う…

うーん、難しすぎる

とりあえず
今死にたいと願う人には逃げてでも生きてって

心から思います


※追記

生きたいと願って生きたところで何故生きるのか、何をして生きるのかそこらへんがぼんやりしています。

誰かの為に生きるとか、仕事のために生きるのかとか。

答えはなかなか見つからないです。

でも私は、

いつか誰かを支えられるかもしれない、助けられるかもしれない。誰かの生きがいになれるかもしれない。

とりあえずそんな気持ちで生きています。







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