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ショートショート・『ネギトロ唇』

 姉貴お気に入りカレンダーの枠外に「ネギトロ唇」とメモ書きがあった。
 クールで控えめな姉が、自分の推しの声優カレンダーに、落書きするなんて珍しいなと思った。
 好奇心に駆られて、僕は尋ねた。

「姉貴、ネギトロ唇って何?」

 来客部屋の隅で足の爪を切っていた姉は、少し照れくさそうに答えた。

「推しが一番ハマってるリップクリームだよ」
「リップクリーム? ネギトロ唇?」
「ラジオで言ってたの、どこに行っても売り切れなんだよね、ネットでも売り切れだしさ。アンタもし、どこかで見かけたら買っといて、100円上乗せして買い取るから、ネギトロ唇」

 僕は少し不安になりながら訊ねた。

「でも、リップクリームにネギトロってどうなの? 効能とかあるの?」

 姉は手を止めて、ふふっと笑って言った。「和風の香りでツーンとした感じと、とろみを感じるらしいよ、舐めたら美味しいから、フレンチキスとかに良いみたいよ」

「フレンチキス?」

 僕は疑問に思った。

「姉貴、フレンチキスどころか普通のキスをする相手もいないじゃん」
「なんだ」

 と彼女は爪切りを中断し、僕に突進してきた。豆タンクのような姉にタックルされた僕は、後ろに吹き飛び、押入れのフスマにぶち当たり、フスマは破れた。季節外れの衣装や大量のホカロン、布団圧縮袋、ミニ掃除機など様々なものがバサバサと僕の上に落ちてきた。
 廊下を隔てたリビングから、両親の叫ぶ声が聞こえる。

「やめなさい!」「やめるんだ!」

 小太りの般若が憑依した表情の姉貴は、スタスタと僕に接近し、躊躇なくまたがり、表情を変えず、瞬きもせず、僕に平手打ちを連続で喰らわした。
 僕にマウントを取った姉の平手打ちは止まらない。これは平手打ちではなく掌底というのだろうか、僕は死を感じた。痛みの中で姉の怒りを沈める案を模索したが、走馬灯が回る間もなく、暗黒に包まれ、僕は気絶した。

 目を覚ますと、僕は自分のベッドに寝ていた。横には姉が怖い顔で、まだ僕を睨んでいた。

「起きたの?」

 と姉が言った。

「うん、起きたよ」
 
 と僕は答えた。

「痛かった?」
「うん、痛かったよ」
「私がなんで怒ったかわかる?」

 と姉が問いかけた。
 僕は姉が切れた理由が全くわからなかったが、正直にわからなかったと答えると、非常にまずい展開がまた起きそうな気がした。僕の野生のカンだ。
 僕は深刻に考えてる風の表情を作ることにした。じわじわと時間をかけて申し訳なさそうな表情を作り、かなり微妙に唇を震わせつつ、唇の内側を甘噛みしながら「……わかるよ……ごめん」と渋い声色のトーンで謝った。
 本来ならば被害者の僕に姉貴が謝るのが、世間の常識である、しかし、怒りを内包した姉貴に世間の常識は通用しない。
 姉貴は、まだ怒り収まらずな風で、憎々しげな眼差しを僕に向けながらも「わかったら良いんだよ」とゆっくり言って、ベッドサイドから立ち去った。

 僕はもう、ネギトロ唇のことなんてどうでもよくなった。
 女って怖いなと思った。女ってわからない。と思いながら、気づくとまだ身体中に力が入っていた。健気な僕の身体よ、生きててくれてありがとう、と思いながら全身をゆっくりと緩ませた。身体が全身緩んだら、ホッとしてなぜか泣けてきた。

 廊下を通り過ぎる父がちらっと僕を見た。天井を凝視しながら僕は思った。
 いつか姉貴にキスしてくれる男が現れるといいなと、心から思った。
 本当だぜ君。

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