『ヤエル49』 第九章
◆脱出の時間
島の南側のバー。
森下妹が酔いつぶれて、カウンターでへたばっていた。あのままずっと飲み続けていたようだ。
マスターに肩をゆすられるが、森下妹はなかなか起きない。
「はぁ、お客さん、お客さん……」
「……ヌシなんているわけないじゃない……バカよ、兄さんはバカ。頭がおかしい! 熊なんてこんな島にいるわけがない! なんで? なんでそれで、熊と勝とうとする? なんでムキムキになる? 見られてたから? ハァ? ハァ? 私の方が兄さんをみてたっちゅうね、私の方が兄さんのこと見てたってちゅうね、私も腹筋、バリバリちゃね、だったら、兄さん、わたしを倒せばいいやん! 兄さん、クマを殺すな、わたしを倒せ!! 」
「はぁ、そうですよね、倒せばいいんですけどね、でもお客さん」
「……何よ。閉店?朝まで飲ませてくれないの?」
森下妹が体を起こすと、そこには真面目そうな自衛隊員たち(タケナカの部下)数名がヘルメットをかぶって立っていた。
「えっ」
「避難命令が出てます。お客さん、脱出です」
◆自らを囮に
「罠は、できた。……うまく動くかわからないけど……。」
ブルーシートで地面を覆い隠し、作業が終了したあさみ。
何としてでもユビナガをこの罠に仕掛けて、倒さねばならない……。
ややあって、あさみは走りだした。
「私が……囮になる。あいつは、私が倒す――」
あさみにとってユビナガは、まるで他の惑星からやって来た宇宙人のようにも思える。
知能があるのは分かる。
だが、一切の思惑が、まるで理解できない。
そう思いながらあさみは、ざわざわと騒がしい森の中へ入っていく。
◆問い
ふと、あさみは動きを止める。
先ほどまで大きな音が連続していたのだが、今は静まり返っている…… 森の中。
しかし、かすかに、音が聞こえる。
自然な森の中であれば、おそらく耳にしないであろう電子音――。
「これは……」
ケータイ電話の音である。
あさみの設定している着信音だ。
ユビナガは近くにいる。
あえて携帯電話の音を鳴らして、あさみを恐怖に煽ろうとしているのか。
それとも、単にあさみの姿を見失い、携帯電話の音を鳴らして呼びこもうとしていたのか。
「ねえっ!」
あさみは不意に大声を発した。
あえて隠れず、山道の開けた場所の中心に身体を晒し、どこかに隠れているだろう、ユビナガに対して自分の体を見せつけようとしたのだ。
「どうして、私を襲うの!」
正直、怖い。恐ろしい。
ユビナガは、もうこの森の中のどこかに擬態してこちらを伺っているかもしれない。
それでも、ユビナガと決着をつけるためには、こちらから打ってでなければいけない。
あさみは勇気を振りしぼる。
「あなたは、何者なの? あのバーで私たち、何かした?」
そして、目を、よく凝らす。
風で動く木々の中に、茂みの盛り上がりのようなコートを着たユビナガがいるはずだ。
「女の子を……襲って……そんなに楽しい?」
電子音が、不意に止んだ。
正面だ。
木々の切れ間から、のっそりとした草のダミーが盛り上がり、こっちにゆっくり近づいてくる。
見れば、ユビナガは血まみれだ。左腕もだらんと垂れ下がっている。(ヌシとの戦闘をしたため)
あさみは、覚悟していたとはいえ、その異様な姿を見てすくみあがってしまった。
必死に恐怖を押し込めようとする。携帯電話は、やはりユビナガが持っていた。
ユビナガは、右手に持っていた携帯を、あさみに見せる。
この島の山の南側であれば、ぎりぎりで電波が入る。
「返して……。それは私のケータイだから……」
震える声。なんとか絞り出す。
もしかしたら、ユビナガはいたるところでこういう事をしているのではないか。
自身のサバイバル技術を使って女を山に拉致し、恐怖におびえさせながら暴行をする……。
だが、あさみは今、恐怖を乗り越えようとして立っている。
この森は、私の森なのだから。
森林官としての、私の居場所なのだから。
◆「ボーダム」
突然、ユビナガは携帯電話をこちらに投げてきた。ユビナガとあさみの中間地点に、携帯電話が落ちる。
迷彩スーツの、フードの奥は、やはり陰になっていて表情は見えない。
拾ってこい、ということなのか、とあさみが身構えていると……。
「……ボー、ダム」
ユビナガが、何かを呟いている。
前のような、甲高い声でない。もともとのユビナガの地の声なのだろう。
「……ボーダム」
ボーダム。
あさみにはそう聞こえた。外国の言葉かもしれない。
そう聞こえただけで、本当は「ボーダム」ではなく、別の単語を発しているのかもしれない。
ユビナガは、ボーダムと呟き続けている。
快楽のためだった。
うさばらしのためだった。
だが、遊びが長くなり、獲物が弱りだして遊びの終わりが近くなると、ユビナガは決まってこうつぶやく。
「ボーダム」
と。
「嫌よ……私は……」
拒絶するあさみ。足の震えは、ようやく止まった。
「死にたく、ないもの!」
あさみは飛び出し、置かれている携帯電話へとダッシュした。
それを見たユビナガも携帯に近づく。
僅かに、ユビナガの方が携帯をとるのが早かった。
あさみとの距離は、3メートル。
ユビナガは携帯をとりあげると、その携帯を、片手で握りつぶした。
連絡手段は、もうない――。それを、見せつけるかのように、笑う。
その顔が見たかった、とでもいいたげに、ユビナガは低い声で、口から笑い声を漏らす。
あさみは一瞬だけユビナガを睨みつけると、すぐに後ろへ走って逃げだした。
ユビナガも逃げるあさみを追いかける。
やはりだ、とあさみは思った。
ユビナガは全然、全力を出して走っていない。
つかず、離れず、煽るように、一定の距離を保って、しかし確実に距離をつめて追い詰めてくる……。
このままでは、あさみは山頂に向かうまでに追いつかれてしまう……すると、あさみは足をもつらせて、転んでしまった。
じわ、じわ、と、ユビナガが迫ってくる――。
◆「逃げろ」
その時だ。
山の下の方からものすごい勢いで走ってくる者がいた。
「あっ……」
おもわずユビナガも振り返った。
ヌシ熊だ。片目はナタが刺さったままだが、ヌシはユビナガを追いかけてきたのだ。
「小熊の……親?」
ヌシ熊は一直線にユビナガにとびかかる。
ユビナガはとっさの事で左腕でガードしたが、腕をそのまま噛みつかれてしまった。
一瞬、ヌシ熊とあさみは目が合う。
まるでヌシ熊があさみに「逃げろ」と言っているように見えた。
あさみは立ち上がり、山頂に走っていく――。
◆可能性
スープラと井上は、光子ゴーグルに光る粒子の光の粒を頼りに、タモタンを走って追っている。
「歩みはゆっくりだが、タモタンははっきりと目的をもって移動してる。『位相断面の環』を把握した可能性が高いわ」
「一応確認だけど、ヤエルの機密の中に、これまで「白ウサギ」が人間を取り込んだことは一度も報告されてないわけね?」
「知ってたら前に言っている」
「だよなあ」
ただでさえ頑強で、討伐に危険を伴う白ウサギをこれまで殲滅できたのは、白ウサギが地球の環境に慣れる前、体のコントロールができてない時に攻撃をすることができていたためだ。
「タモタンは人間を取り込んで、地球の環境に適応した……。ただ、エネルギーの消費が激しいから、普段は小さい恰好で、攻撃を受けると人間サイズになる、って感じかな」
井上の声は、こうした状況でも少し優しい。
「ただし、宇宙外生命体の持つ細胞と地球に存在する細胞は素粒子レベルで構成が異なる。地球に存在するだけで、次元のズレである『位相断面の環』が生成されてしまう程度に、体組織からして次元が違う生き物だ。だが、ペプチターゼの分解酵素は、そうした細胞の結びつきを破壊する効果が期待できる。人間という異物を取り込んだタモタン相手なら――可能性はある」
一方、スープラの声のトーンは、相変わらず冷静で、少し早い。
「可能性ね……」
重冷凍兵器でも足止めすらできなかったタモタンを殲滅する作戦は、シンプルだった。
外宇宙生命体の身組織細胞を地球の成分に分解する酵素「強化ペプチダーゼ」を、タンクごとタモタンの体内に挿入し、内部からの消滅を狙う……というものだ。
「人間形態のタモタンはペプチターゼを極端に嫌う動きを見せていた、ってのが、この作戦の唯一の根拠ね」
森を走りながら、井上はスープラに口頭で伝える。
「人間形態時のタモタンの口部は、擬態化のため無理やり閉じている。だが、顔面を走 る亀裂のような所から酸が滲んでいるのを見た。そこが、タモタン本来の口の痕跡だろうね。……あんたの力で、その口を引き裂き、大口を開けさせる。そこに俺が直接ペプチターゼ管の タンクをぶちこむ。できるか、スープラ」
スープラは無言でうなずく。井上もそれにうなずき返す。
すると、スープラは突如加速した。
これまでは井上に合わせた移動速度だったのが、作戦を伝えきるやいなや、とてつもない勢いで山を疾駆する。
まるで電流が曲がりくねった配管の中を通り過ぎるかのような、人間離れした加速だ。
「NDGか……」
天使のような泣き顔からは想像できない、生体兵器の一面を目の当たりにする井上。
スープラに伝えた作戦も、普段の井上ならば絶対に提案しない作戦だ。
内容が不確定な予測の積み上げの上でしかたてられていない事、攻撃の方法を具体的にしていない事、味方に極めてリスクが高い接近戦である事……。
「生きるか、死ぬかだもんな」
そう言うと、井上も半壊したバイザーを下げ、手には最後の希望である強化ペプチターゼの管カートリッジを、ぐっと握りしめた。
◆「生きる」
あさみは、逃げながら思う。
森のヌシの熊は、あさみの目からしても最後の気力をふり絞っているように見えた。
おそらく、ヌシ熊は慣れない南国で生活するだけで精いっぱいだったのだろう。
それでも、ヌシ熊は生き延びた。
だが、ヌシ熊は死ぬだろう。その代り、私を生かして。
「ありがとう」
と、そう呟く。
ふと、世界各国で動物たちが子どもたちを救っているニュースを、またちらっと思い出しながら……。
喘息の発作は、もう出ない。
普段自分が職場にしている森、山、道……それらが、夜の闇の中、月明かりに照らされてまったくの非日常に見える。
森林官の仕事で、何度も何度も来ているこの森で、あさみは見落としていたことの多さに気付く。
それに気づくと言う事は、もしかしたら自分の死が近いのかもしれない。
感覚が研ぎ澄まされ、月明かり程度の夜道ですら、昼間と同じように動けている。
死の直前はありとあらゆる感覚が極端に鋭くなるという。
今、見ている光景は、死に向かう者が今際の際に見る景色なのだろうか、とあさみは不吉な事を思い、すぐにその考えを打ち消した。
生きる。
生きるのだ。
突如やってきた不条理な暴力と、死から……立ち向かって、戦うのだ。
自分が、生きるために。
◆山頂
山頂に、風が吹いていた。
あさみは振り返ることなく、その場所に到着する。
道の下の方から、鳥がまた立つ。ユビナガが追ってきているのだろう。
あさみは予定通り、土砂崩れ保護のブルーシートを挟んで神社のそばの電柱の陰になっている個所に身を隠す。
ここからなら、ちょうど足だけ見えているように身を隠せるのだ。
ここにいる事を知ったなら、ユビナガはブルーシートを踏み超えてやってくる。
山頂の非常電話を破壊した時に、ユビナガはブルーシートの上に踏み込んできた事だろう。このブルーシートの下が、今すぐ崩落するわけではないことも知っているはずだ。
シートを乗り越えて、特に怪しまず、最短距離で自分のところに来る、はずだ。
今、そのブルーシートの下の地面は、あさみが先ほど、崩落防止の横杭を外した状態になっている。
落とし穴だ。
大の大人が足を踏み入れたのなら、体重で山頂脇の崖に落ちるようにな仕組みになっている。
息を殺して、あさみはユビナガを待つ。
別に息を殺す必要はない。見つかる事が前提なのだから。
それでも、おもわず気配を絶とうと、懸命に呼吸を止める。
乱暴な足音が聞こえる。
まるで怪物のような、一歩一歩大地を踏みしめ歩いている、そんな足音……。
やはり、来たのだ。
熊をふりきって、ユビナガは、私をなぶり殺しにやってきたのだ。
あゆみが止まる音。
じっとこちらを、見ている。
見られている感覚がある。
ザッ、ザッ、と地面の砂利を踏み荒らす音から……ブルーシートに乗る音がした!
その、刹那! ――ズサァーという大音と共に、ブルーシートが神社脇のがけ下へ吸い込まれる。大きな塊の土ががけ下に転がっていき、地面とシートが擦れた大きな音が鳴り響く。
「ぐぁぁぁあああああぁぁぁあ……!!」
断末魔の叫びの様である。
罠は、成功したのだ!
◆想定外
しかし崖と言っても、ユビナガの体力を考えれば、すぐに這い上がってきてしまうのは予想できた。なので罠は二重の仕掛けにしてある。
あさみはすぐさま神社の陰から飛びだす。ブルーシートの罠に引っ掛かったら、すぐさまその下に張ってある第二の罠――つり上げ式の罠を作動させるつもりだった。
だが――。
「何……これ……?」
崖の下に落ち、土まみれになりながらブルーシートとワイヤーに絡まってもがいていたのは、見たことのない白い生物―― 井上達が血眼になって追いかけていた、タモタンであった!!
「……!!」
タモタンは、周囲に体液をまき散らしながら、崖の下でもがいている。だが、その身体は奇妙に柔らかく、絡まっているククリのワイヤーから今にも飛び出しそうだった。
「どういう事――?」
全く訳が分からない。
だが、ワイヤーにからまりもがくタモタンのせいで、第二の罠のストッパーはあさみが操作する前に自動的に外れてしまった。
周囲の大木を渡してしならせてある枝の反動で、罠にかかった生き物は勢いよく空中に吊るされる。ワイヤーにからまりながら空中でもがくソレは、とても地球上の生き物とは思えなかった。
あさみは、何が何だか分からないまま、ただソレを眺めていた。
そして、ソレを、呆然と見ているもう一人の人間の姿があった。
ユビナガだ。
ユビナガが、山頂の入り口、神社の鳥居の下で、神社脇の崖で吊りあげられた白い生き物を眺めている。
◆罠にかかったタモタン、そして……
吊るされたタモタンは突如、身体をボコボコと膨らませ、無理やりワイヤーを引きちぎった。
2、3メートルの高さから叩きつけられたタモタン。
罠の圧迫感が相当不快だったのか、地面に落ちるや否や手足の関節をあり得ない方向に向けて暴れまくっている。
やがてタモタンは、崖の上にいて見下ろしているあさみに気がついた。
トカゲのように四つん這いになって反り立つ崖を勢いよく這い上がるタモタン。
そしてあさみの前にまで四足走りでくると、急に直立し、ふらりふらりと体を揺らす。
「あ……」
森下さんに少しだけ似ている、となぜかあさみはそう思った。
死を前にして、あさみのカンは冴えていた。
そして、白い怪物の頭部は突如、三つに裂ける。
それは、口だった。
三つに裂けた口の中は、グロテスクなほど赤く、あさみをまさに飲みこもうとしている。
あさみは立ち尽くすだけで、もう何もできない――。
雨はすっかり上がっていた。雨雲も風に吹かれ、月が、この異常な瞬間を照らしていた……。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?