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【連載】「いるものの呼吸」#6 TIKI BUN映画『悪は存在しない』と『ぼのぼの』

 幽霊、場所、まだ生まれていないもの――。目に見えない、声を持たないものたちの呼吸に耳を澄まし、その存在に目を凝らす。わたしたちの「外部」とともに生きるために。
『眠る虫』(2020年)、『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』(2023年)など、特異な視点と表現による作品で注目を集める映画監督・金子由里奈さんの不定期連載エッセイ。
 第六回は、濱口竜介監督『悪は存在しない』といがらしみきお監督『ぼのぼの』について。多くの共通項を持ち、「人間以外」の視点へ見るものを誘う両作を「TIKI BUN」を鍵に論じます。
 *本文中に『悪は存在しない』と『ぼのぼの』両作の結末に関する記述があります。

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 モーニング娘。の『TIKI BUN』という楽曲にこんな一節がある。

人類が一番偉そうな現状で 現状で
この海も空も山もほら泣いてるよ 泣いてるよ

『TIKI BUN』(2014年)作詞・作曲:つんく♂ 編曲:大久保薫  

 数年前、コロナになってホテル療養してなぜかモーニング娘。の楽曲しか魂に注入できなかった時期があった。わたしはこの曲を聴いて「人でごめん」と泣いた。人がいなければコロナなんて蔓延しなかったこの地球で、人がコロナになって、人が騒いで、人が苦しい。人で苦しい。わたしはどうして人間に生まれてきてしまったのだろう。このどうしようもない資本主義社会に、どうしようもない家父長制(天皇制)国家に。景色は権威が作り、個人は消失していく。選挙に行ってもなぜかいつも自民党が勝つ。にんげん。どうしようもねえ。どこまでもにんげん。今もあらゆる国で理不尽に人が殺されていて、何をしても環境破壊になる。なのに映画なんか作りたくって、新しい服が欲しい(泣)。なんなの。しんど。

 今回はそんなわたしの心を揉んでくれる2本の映画を紹介したい。『悪は存在しない』(2024年)と『ぼのぼの』(1993年)である。
 今年5月全国のミニシアターで公開された濱口竜介監督作品『悪は存在しない』。アートハウス映画やインディペンデント映画を支えているミニシアターに還元するような配給方式であり、また、地方のミニシアターが二番館ではないのも珍しいのではないだろうか。この5月から、映画ファンだけでなく、新たな層とミニシアターの出会いが多くあったことだろう。
 それだけでなく、この映画は制作の契機が特殊らしい。濱口竜介が石橋英子からの依頼でライブパフォーマンス用の映像作品を制作する過程で、映画作品として作られたそうだ。ということもあって、音楽は物語世界から妙に達観した「自然」的な位置に存在する。音楽が突然止まるように、自然は突然災害を起こし、わたしたちを殺す。しかしそこに「悪は存在しない」。
 映画の冒頭、森に張り巡らされた毛細血管のような枝を見上げるような移動撮影。森が本来ならどこまでも続いているように、息継ぎのないそのショットはわたしの息を詰まらせた。自然は人間とは別次元で、血液=水を流しながら生きているということをわたしはいつも忘れている。
 水がこの映画のひとつのキーワードである。「水挽町」という架空の集落にとある芸能事務所が助成金目当てでグランピング場を開発する計画を立てる。その住民説明会で汚水問題が浮き彫りになり住民たちが反発をする。
 その住民の中でも異様な存在感を放つのが、主人公・巧。彼はどこか規範から逸脱した存在だ。「普通」の働き方はしてなさそうだが金には困ってなく、娘・花の迎え時間をいつも忘れ、規範的な時間の外に生きている。かといって、自然を愛しているようには見えない。暴力的に木々を切りどこでも煙草を吸う。この妙さ。別に、自然=巧ではない。でも、巧は自然が血液を流して生きていることを知っている。
 水は上から下に流れ、鹿はその場所を通る。一方向に流れていくのが自然である。そこに人が踏み込み、流れを変えたり止めたりしながら、通り道を塞いでいく。自然は人が介入した時にしか「悪」になり得ない。
 映画のラスト、巧の行動は至ってシンプルだった。自然の流れを止め「悪」に変換しようとする「人間」を制圧し、本来の流れに戻しただけなのだと思う。人間中心主義・関係主義が加速する世界で透明化されつつある自然の血液の流れを可視化する映画だと感じた。
 これは映画制作においても言えることである。本来その場所に流れる時間を人為的に止め、場所に暴力を振るいながら映画は作られていく。その映画という手段を取りながら、脱人間中心主義的な映画を作ることはいかにも人間らしい。

 この『悪は存在しない』と補完し合うような作品がいがらしみきお監督作品『ぼのぼの』である。原作者のいがらしみきお自ら脚本と監督を務め、1993年に公開された映画である。
 ぼのぼのたちの住む森の俯瞰ショットから映画が始まり、次第にとある道に拡大されていくのだが、みちみちと並ぶ木々たちに鳥肌が立つ。わたしたちが見ていない森を見せられるようで、『悪は存在しない』の冒頭とも通ずる。 
 ぼのぼのはいつものようにささやかで楽しい遊びを見つけたり、友達のシマリスくんにその遊びを伝えたりしている。そんなぼのぼのたちの日常が繰り広げられる中、とある怪情報が動物たちの噂になる。
 ぼのぼのたちが住む森に、見たこともないデッカイ生き物がやって来るという。動物たちは大騒ぎ。アライグマくんとぼのぼのとシマリスくんは、そのデッカイ生き物を探しにいく。森の大人たちはそのデッカイ生き物を「アレ」と呼び、「アレが通った後は何かが変わる」という。「アレ」は今までも定期的に森を通るようだ。しかし、ヒグマの大将は言う。「あいつは通してやる」と。森は鹿の通り道であり、「アレ」の通り道でもあるようだ。
 次第に、「アレ」は近づいてきて、ぼのぼのたちは「アレ」を目撃することになる。ヒグマの大将の子供である好奇心旺盛なコヒグマが「アレ」に向かって走り出す。動物たちは息を呑む。コヒグマを助けないと「アレ」に潰されてしまう。しかしヒグマの大将はコヒグマを助けない。 
 巧は花を、ヒグマの大将はコヒグマを助けなかった。その理由に差異はあったとしても、大雑把に言うなら「悪は存在しない」からであろう。
 スナドリネコがはじめてぼのぼのたちの住む森に来た日、ヒグマの大将とスナドリネコは決闘をした。スナドリネコはその決闘に命を賭ける。それに気づいたヒグマの大将は強く非難する。ヒグマの大将は、生き物が何かを守るために命を賭けると、その連鎖が続き世界が混乱に陥ることを知っている。それは現代社会であり、戦争であるとわたしは解釈する。ヒグマの大将は「生き物は生きていることが全て」であるという。つまり、ヒグマの大将は「自然」で、スナドリネコは我々「人間」の象徴なのだろう。
 ヒグマの大将はコヒグマを「そうするのが正しい」から助けなかった。
 自然の通り道を塞がないことが「そうするのが正しい(ヒグマのセリフ)」と選択したのは、巧にも当てはまるだろう。もし、芸能事務所の高橋が花を助けていたら、それは「そうしてもいい(スナドリネコ)」行動で、人間の傲慢である。我々人間の行動は全てが「正しさ」ではなく、ひとりよがりだ。
 でも、そんなん言ったって、どうすればいいのだ。だって、人間に生まれてしまったし、人間以外にはなれないのだから。どうしろって言うんだ! その問いに対する回答がこの二本の映画には提示されている。『悪は存在しない』はわさび視点、車視点、木視点など、人間以外の視点ショットで表現している。それらのショットは鑑賞者に非人間的な生への頷きを促す。そして、『ぼのぼの』はラストのスナドリネコさんのセリフで。これはぜひ本編で出会ってほしい。この呼応し合う二つの映画が、人間に生まれてしまったわたしの心を揉んでくれる。
 しかし、ここまで書いてきてふと、人間と自然は二項対立で語れるものでもないと思ったりもする。 ちなみに『TIKI BUN』の意味には諸説あって、「地球の気分」略して『TIKI BUN』説もハロヲタたちの中で有力だ。わたしたちはあまりにもTIKI BUNを無視している。戦争を、虐殺を、環境破壊を、非人間的な生を蔑ろにすることをこの地球が歓迎しているわけがない。

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著者:金子由里奈(かねこ・ゆりな)
東京都出身。立命館大学映像学部在学中に映画制作を開始。山戶結希 企画・プロデュース『21 世紀の女の子』(2018年)公募枠に約200名の中から選出され、伊藤沙莉を主演に迎えて『projection』を監督。また、自主映画『散歩する植物』(2019年)が PFF アワード 2019に入選し、ドイツ・ニッポンコネクション、ソウル国際女性映画祭、香港フレッシュ・ウェーブ短編映画祭でも上映される。初⻑編作品『眠る虫』(2020年)は、MOOSIC LAB2019においてグランプリに輝き、自主配給ながら各地での劇場公開を果たした。初商業作品『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』(2023年)は、大阪アジアン映画祭、上海国際映画祭で上映されるほか、第15回TAMA映画賞最優秀新進監督賞を受賞した。

バナーデザイン:森敬太(合同会社 飛ぶ教室)

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