車の話
物理
体が鈍ってきたと感じると、サーキットを走ります。(F1コースと同じ鈴鹿のフルコース等)乱暴にアクセルを踏み続ける(そうすると、車はコースを外れ飛んでいくでしょう。)とか、派手にドリフトする(タイヤの限界域付近で走っていると、安定したドリフト状態にはなりますが)とか、と言ったものではありません。
車は4つのタイヤで動きます。前後左右のタイヤに力が懸かっていて急激に力の懸かり具合を変化させず、タイヤに力故の熱エネルギーを持たせる運転の仕方がサーキット走行には必要になります。前のタイヤに力が懸かり過ぎ、後のタイヤに力が懸かっていない状態(下りの坂道でのブレーキ状態等)でハンドルを切るならば、後のタイヤは路面を踏ん張る事が出来ず、車はスピンするでしょう。右のタイヤに力が懸かる左にハンドルを切っている状態では、車は外側にふくらみます。それが怖くて、アクセルをゆるめ過ぎると、右のタイヤは熱量を奪われ、更に左に車が巻き込まれるように、スピンするでしょう。一般の高速道路、特に下りのカーブの連続では、そうなりかけている暴走車をたまに目にします。車の運転は物理に支配されるのです。道路の設計は物理的にとても良く出来ているのですが、物理の理解と体での確信がドライバーに無いと危険なのです。その上でサーキットのコースは設計されている故、コースの狙いを読み取り、車の物理を想像し、車を自然(じねん)なコントロールに近付ける所作が求められます。コンピューターが車の安定性を、あらゆる場面で制御しようとする装置を持たない、ややクラッシックなレーシングカーでサーキットを走る事は、自らの身体の使い方を物理と共に学ぶ他のスポーツと同様のようです。
身体
一方、車は消費物です。この消費物の選択に際し、文化軸と経済軸の座標の現す各々の箇所には記号(象徴化するもの)が複雑に現れ、消費物は、その人の階層、趣味、教養、経済力等を現す、表したいとする、人から見られたいとする記号と成り得る。その記号を人は使いこなす、選択する。と言った面を持ちます。(記号論やボードリヤール、ブルデューの章を参照)が、サーキットに集まる色々な車と人々。中でも、グッドウッド(イギリスの貴族が発案し、自己所有のサーキット場で戦前、50~70年代中心の旧車による、レースとファッションを中心としたイベント)で見かける様々な旧車や往時のレーシングカーと、各々の車と矛盾しないレーシングスーツやヘルメット等の人々からは、記号だけではない共通した何かが見えるように感じます。
記号から離れ車に身体性を持ち込んでいる所が、そうでは無い人とは異なるように感じます。つまり定住以降に発生した社会的ヒエラルキーや階層を前提とした消費社会や市場の歓心から距離を取る新たな意味として、もっと自身の自由な在り方を定住以前の山人達の移動遊動性(自在に山々を駆ける=自在にサーキットを駆ける)に求めているように思われます。スポーツの発生です。彼らの求める身体の自由は、記号に留まっている人達のモノ、コトが演出する幻想からも自由となっていくように思われます。体を使い切る経験は、自らを自由に解放してくれます。そして暮らしのモノ、コトに自在な世界を作り出します。総体性を持つようになります。自らの幻想に執着し過ぎず、自由に自在になっていくようです。だから・・・のです。(・・・は言葉を入れてみて下さい。)山人達の思想の学びです。
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