見出し画像

時間考

ミヒャエル・エンデ モモ(時間どろぼう)


灰色の紳士達は、時間どろぼうである。とりわけ‘人生で大事なことは、ひとつ。それは。何かに成功すること。ひとかどの者になること。たくさんのものを手に入れること。他の人より成功し、偉くなり、金持ちになった人間には、その他のもの、友情だの、愛だの、名誉だの、そんな物は何もかも、ひとりでに集まってくるものだ’と彼らがモモに語る様に、或いは‘俺は人生を誤った、たかがケチな床屋じゃないか、俺だってちゃんとした暮らしが出来ていたら、今とは全然違う人間になっていたろうに’と、彼らの価値とするものを良しとする、この床屋と同じ様に、こう考える大人達の時間を灰色の紳士達は盗んで生きている。
灰色の紳士達は、更に語る。‘将来ちゃんとした暮らし、今とは違った人生を始められるよう、時間を貯めておこう。時間は貴重だ、無駄にするな。時は金なり、時間節約こそ未来、幸福の道だ’と。そして、こう考える大人達
は、都市を中心に拡がっていく。一方、仕事面では、左官が語る。‘俺達の仕事は、もはや仕事ではない、今やっている家の壁は、4.5年はもつかも知れないが、その後は、どうなるものか?モルタルに砂を入れ過ぎたり、インチキな工事ばかりだ。でも割り切っている。そんなことに思い煩うことなく、お金を貰いさえすれば良しさ’と、仕事への愛情を左官は失っていく。かつての生業は過去のものとなっていく。そして飲み屋で毎晩酔う(麻痺)ようになっていく。左官は何かに苛々し続けている。
街や暮らしの面では、作者が語る。‘地平線の果てまで続く整然と直線の連なる新しい住宅街。唯々、一直線に伸びる生活’。‘時間の節約はコストの節約、暮らしの節約、時間をケチケチすることで、本当は別の何かをケチケチすることに気付いていない大人達’と語る。そして、この社会では大人達は子供達と遊ばなくなった。何が起こるか分からない「ゆらぎと曲がり」(「整然と直線」に対して)の時間を大人達は恐れるようになった、子供達には、
それがあったから。大人達の恐れは、子供達を大人化しようとする、何かに成功する大人への整然且つ直線なゴールを求めて。この社会が続くようにと。そして、子供達は、いなくなった。(灰色の紳士達に大人同様、時間を盗まれた子供)遊びは浪費(節約に対して)となった、と作者の後に、続ける事が出来ます。
一方、人の話しを目を見て、チャンと聞くことの出来るモモの周りには、子供も大人も集まって来ます。(未だ、時間どろぼうをされていない人々)モモは特別なことをする訳ではないのですが、彼らは、モモといると、自分自身で遊び(空想の物語を語り合い、それを議論したり、仕事の在り方を愉しみの中で感じる世界観として、自らの話しの中から感じ取ったり)を発見し、自由な時間の中に、自らを解放させます。また、モモは犬や猫、コオロギやヒキガエル、雨や木々、風、夜空にまで耳を傾け音楽を愉しみます。モモの時間は、人も、自然も等価であり、人と人も等価であるとする関係の上に成り立つ心の時間(主観性)のようであり、灰色の紳士達の言う、誰もが計測可能な時計の針の進み具合の時間(客観性)とは異なるようです。
この物語は、1973年に児童文学としてローマ近郊で書かれました。当初はドイツでの出版予定でしたが、ドイツでは出版ままならず、イタリアで出版されたようです。このモモが灰色の紳士達から時間を取り戻す冒険小説を資本主義への批評とするのは、たやすいことですが、その前に、私達は時間を、どう捉えていたのかを考えてみたいと思います。

モモと身体性

物語の範疇である時間とは別に、時間はあるものとの関係の上に成り立っている私達の心の中にあるものとするならば、それを述べる事は主観的な論述のように聞こえます。(時間とは○○と言うものだから、○○として扱わなければならない、と言った先の灰色の紳士達の如く。これは説教か自説強要お節介です。)但し、この場合、主観的論述は、客観的論述ともなり得ます。例えば、暑寒と温度計の関係を述べます。私達は身体で暑寒を感じます。 暑寒を感じた後、温度計はある数値を示します。温度計がある数値を示しているから、暑寒を感じるのではありません。温度計が示す数値が暑寒の感じをもたらすことを学習するから、暑寒を感じる以前に暑寒を事前に想像出来るようになるだけです。そもそも暑寒を身体が感じなければ暑寒と言う意味、言葉は存在しません。つまり、暑寒は、主観的身体で感じる事実であり、その時初めて客観的事実となる性格のものです。暑寒を私達が感じる時の長短、温度計を時計と置き換えることも出来ます。          私達は自然(しぜん)から自然(じねん)と神にも似た、手を合わせる祈る感覚、安定の感覚を身体が感じます。この身体の感覚を信ずる故、祈りや神を自然の中から見出します。(以前の章参照)祈りや神を、自然の中から見出す為に、身体の感覚を信じるのではないのです。清沢満之(1863年 文久3年~1903年 明治36年没 41歳)によれば「神仏が存在するがゆえに神仏を信じるのではなく、神仏を信じるが故に、私共に対して神仏が存在するのである。」としています。これは、身体の感じる心の動きが安定感をその人に与えることに対し、安定感を得たいが余り、身体が感じる心の動きだと思うことは錯覚、事実ではないとの意だと考え、前文と同意だとも考えます。モモから考察するに、時間は、私達が身体で感じ、信じてきた自然、祈りとの関係の中に成り立ちの歴史を持ち、身体で感じる主観的事実故客観的事実となり得つつ、身体性の位相、主観的事実が逆に貧しくなっていく歴史を持っているようです。まるでモモ対灰色の紳士達の様に。

万物一体 諸行無常 モモの謎解き

ここでは、先人達は時間を、どう捉えていたのかに関して、最適者だと思われる哲学思想家を通じて述べてみたいと思います。‘宇宙間に存在する千万無量の物体が決して各個別に独立自在するものではなく、互いに相い依り相い俟って、一組織を成すものであることを表示するものである’、万物一体の真理は、‘我々がそれを覚知しない間も、常に我々の上に活動しているのである’。と先の清沢満之は書き記しています。(明治34年)
空気や日光、山や川、草木や鳥獣、そして他人は、自分から分離した外物と考えている人々が増え始める時代にあって、空気や日光だけでなく、ある物は、衣服、飲食、住居となり、自分の生存と分離していない。それは、ある人にとっても、又ある人にとっても同じであり、つまり、自分と他人も、その面では分離していない。天地万物は皆自分の財産であり、他の財産である。と、コモンズ同様に説いています。
一方、鈴木大拙(以前の章参照)は、こう説いています。諸行無常。是出滅法。(諸行は無常なり。是れ生滅の法なり)、無常と言うと、平家物語の諸行無常を盛者必衰と置き換え人生悲劇のお題目的に解す如く、如何にも悲しい感情がでるように連想されてきたが、そうでは無く、何もかも移り変わって、昨日の瀬は今日の渕となる、と言うように、水の流れの止まないのが、この世の状態なのである。全てのものは生滅せぬものはないのである。諸行の行いとは、行為の意味ではなく、全てのものを表し、全てのものは動く、働く、作用することを意味する。
つまり全てのものは、川の流れのように、動き働きて停まない、しかし刻々と移り変わっていく動くものだ、と
無常を説いています。そして諸行すなわち諸法を動く面から見ると、過去、現在、未来、と言う時間は常なるものではない、無常である。生じて滅して、滅して生ずる。つまり時間は停まないが、その姿は移り変わり(生滅を繰り返し)動く。と時間の意味を説いているように考えます。更に、時間を、時間と言う直線の上に、過去、現在、未来が連続しているものと考えると、いつか行き詰まる、それはエンデと繋がるようですが、更に時間を円として見るとも述べています。

万物には、生と滅があります。死と活があります。両者は離れ得ないものであります。それは草木や鳥獣だけの話ではありません。人も例外ではありません。万物一体なのです。しかし、私達は、その真理から人は例外的だと思うようです。生のみを欲し、滅を嫌う、活のみ求め、死を遠ざけるようです。資本主義は、その実例に事欠きません。時間を直線で考えることは、どういう事でしょう? 円として見るとは、どう考えたら良いのでしょう? これらに対して考察しているのが、資本主義社会の批評と言う以上に根元的な「生きる」ことへの問い掛けを、時間を切り口とした物語であるモモ(時間どろぼう)であるようです。
マイスター・ホラ(時間の主)は、モモに謎解きをします。‘三人の兄弟が、一つの家に住んでいる。本当はまるで違う兄弟なのに、お前が三人を見分けようとすると各々互いに瓜二つ。一番上は今いない、これから現れる。二番目もいないが、こっちはもう家から出た後。三番目のちびさんだけがここにいる。それと言うのも、三番目がここにいないと、あとの二人は無くなってしまうから。大事な三番目がいられるのは、一番目が二番目の兄弟に変身してくれるため。お前が三番目を眺めようとしても、そこに見えるのは、いつも他の兄弟だけ。さあ、三人は本当は、一人、二人、それとも誰もいない? 各々の名前を当てられるかな? それが出来れば。三人の偉大な支配者が分かることになる。彼らは一緒に、一つの国を治めている。しかも彼らこそ、その国そのもの。三人は誰? と言った謎解きの話があります。モモは気付きます。一番目は未来、二番目は過去、三番目は今、現在だと。未来が過去に変わるからこそ、現在、今があると。彼らは時間だと。時間は、この世界そのものだと。
そしてモモは問います。「時間って、一体何なの?」 マイスター・ホラは答えます。「光を見るために目がある。音を聞くために耳があるのと同じように、時間を感じるために心がある。」「心が時間を感じ取らないような時間には、その時間は無いも同じだ。」「でも、心臓が生きて鼓動しているのに、何も感じ取れない心を持った人がいる。」と、モモが更に問います。「私の心臓が止まったら、どうなるの?」マイスター・ホラは答えます。「おまえの時間は終わりになる。」それは、こういう風にも言える。「時間を遡り、人生を逆に戻って行って、ずっと前にくぐった人生への銀の門に辿り着く、そしてその門を今度は、また出ていく。」と。モモの質問は続きます。「あなた(マイスター・ホラ)は死なの?」 マイスター・ホラは答えます。「人間は死を怖がらせる話は信じたがるが、死とは何か知っていたら、怖いとは思わないだろうに、耳を傾けない。」と。
時間は、未来と過去が現在で繋がる運動である。そこで、時間が一本の直線上あるとすると、未来は即過去となり、現在から見た未来のみが延々と一直線上に進み続ける。これでは、モモがマイスターを指して、あなたは死なの?と尋ねた様に、心臓が止まる(滅、死)=時間の終了=万物の滅、死は未来なの? となり、滅死が延々と続き、しっくりこない。また時間を遡り、人生を逆に戻って云々と言う、万物の生、活や無常の様を説明出来なくなる、と考えます。これでは、主観的に違和感を感じ、合理も付きません。反対に、直線とは異なり、時間を円と捉える、スタートとゴールの無い円であり、且つ中心点には心が、つまり現在と言う時間を感じる心があるので、未来も過去も、その円には存在する。この概念を用いると、万物の生滅、死活、無常は説明可となる、と考えます。この場合の心とは、自然(じねん)な祈りや、それを感ずる身体性であることは外でもありません。

詩作

時間は心との関係。直線な時間にある心、曲線、円なる時間にある心。
前者は時間の商品化、すなわち心の商品化。商品は陳腐する。
だから前者は生、活が正義、陳腐せぬよう前へ前へと駆り立てる。
後者は、時間の身体化、すなわち心の安定化。身体は天地万物なり。
だから後者は滅、死も受け入れる、新たな生、活を待つ、喜ぶ。
そして、モモは感じる。直線も円も超えた小宇宙を。それは、小宇宙で遊ぶような時間。万物を感じる時間。
あらゆる音が響き合い、音楽のような光、光がもたらす咲き枯れるを繰り返す草花達。
星の告げる宇宙の音等のモモ時間(モモ空間)。全て心の中にある時間。
身体こそが感じる時間。感じる、感じないも本人次第の時間。
時間は丸い球体。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?