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子どもと問う#10 〜野暮でいなたいママだけど〜

子どもと問う#10
〜野暮でいなたいママだけど〜


「哲学対話を応用して、何かに使えるかもしれない」という話を聞く。
まぁ多分そうなんだろうな。と、思う。

教育やビジネスやその他諸々、きっと役に立つんだろう。そういうことが出来る人もいるんだろうなと、本当にそう思ってる。私が出来ないだけで。

そんな風に哲学対話の全体像を把握して何かのツールにすることが可能な賢い人たちを尻目に、哲学対話自体の中に浸って未だに「どこだ?ここは!」とか言っている私は、賢者たちへの僻み節として「野暮だな」とだけ思うことにしている。



話は変わるけど、私にはママ友がいない。
「ママ友は作らない」と決めているわけではなくて、寧ろ欲しいし募集中なのだが、ママ歴5年になる今も1人もいない。謎だ。

更に話は変わって、うちの息子は「妖怪博士」である。
好きなアニメは『ゲゲゲの鬼太郎』だし、我が家には山のように絵本があるのに『妖怪図鑑』ばかりを繰り返し読んでいるし、ディズニーランドより太田記念美術館(『異世界への誘いー妖怪・霊界・異国』)の方が好きだし、とにかくめちゃくちゃ妖怪に詳しい。
園でのお絵描きでおどろおどろしい絵ばかり描くので、多分、家庭環境に問題があると思われている。

この前保護者会で、「息子は妖怪の名前当てクイズが得意です」と言ったら、とある親切なママさんに「それなら、国旗と国名を覚えさせたら将来役に立ちますよ!」とアドバイスしてもらった。
「え?役に立たなくても良くないっすか?」と返した私に、その親切で賢いママさんは二度と話しかけようとはしなかった。
ママ友が出来ないはずである。謎が解けた。



このように、コミュニケーション能力に極度の難がある私は、ママ友も出来ないし、哲学対話を何かの役に立たせることも出来ないし、ぶっちゃけあんまり友だちいないし、今日も1人でパソコンを叩いている。いじけているのである。

それで、「どうせ私なんか」といじけるのも飽きたので、開き直って「あいつらは野暮だ」と思うことで自分を慰めている。
この哲学対話というゲームをただ単に楽しむだけでは飽き足らず、その副産物を得ようとする功利主義的な賢者たちに「ゲームはゲームなのに」と独り言ちることで、自分の愚かしさに目を瞑ることにしているだけなのだ。
なんというか、色々ドンマイである。やっぱり息子の家庭環境には問題があるのかもしれない。



それでは、私はそのような生産性とか成果主義とか功利主義的発想から無縁の、粋でいなせなママなのかと言えば、全くそうではない。


週末に子ども達と公園で「四つ葉のクローバー探し」をした。
この一文で美しく長閑な情景を思い描いてくださった読者には申し訳ないのだが、ママは野暮にぶち壊した。


だって、私くらいカシコイオトナであれば、すぐにわかる。
「四つ葉」とは、遺伝子情報のバグである。
さするに、人が踏み荒らしていたりする場所の方がバグは起こりやすい。また、四つ葉が一つでも見付かれば、その遺伝子情報は近くのクローバーにも伝わっている可能性が高いので、同じところを探せばいいのである。


結果、ママは大量の四つ葉のクローバーをGETした。
でも、そういうことじゃない。マジで。


ママが四つ葉探しの成果を上げている間、子ども達は地面に目を凝らし、蟻やミミズと出会って驚き、名前も知らない花を慈しみ、四つ葉かと思ったら三つ葉でガッカリし、あ!蝶々!とか言いながら走り回り、また地面に目を落とすと四つ葉があって大喜びして、持っていた図鑑に挟んで押し花にしようとしている。


「四つ葉のクローバー探し」とは、そういうものである。
結果出してどうする。




子どもたちは私に大人の野暮な愚かしさを突き付けてくる。

私たち大人は子どもよりオカネを持っているくせに貧乏くさい。
すぐ「結果出そう」とする。

口では「プロセスが大事」とか言いながら目に見える効用を欲しがる。

でも仕方がないのかも知れない。子ども達のその豊かさを保つために、我々大人はあくせくと何かを作り生み出し、貧乏くさく結果出そうと頑張っているのだから。


私だってスイスイスーダララッタと生きていきたい。「銭のない奴ぁ俺んとこへ来い」なんて言ってみたい。
だけど、銭は必要だし、教育も、仕事も必要なんだ。それは事実で、我々大人が負う責務であり子ども達に任せるわけにはいかない。
そんなことは私たち大人がやるから、だからどうか、子ども達にはただ単に世界を楽しんで欲しい。
大人たちが野暮でいなたく作り上げた世界で、その粋でいなせな豊かさを見せてもらえることが最高のペイなのだから。


そして、私たち大人もたまには粋でいなせな子どもに戻れるところが欲しい。それが私にとっては哲学対話であったりする。
哲学対話の良いところは「時間が決まっている」ことだ。その時間だけは悠々と子どもを謳歌できる。その時間が終われば大人に戻る。
ただ、哲学対話の時間を経験した大人が元の大人に戻っているかと問われれば、そんなことは無いと思う。なんとなくだけど。


とにもかくにも、子どもたちがただ単に遊べる世界が“在る”こと。そのために、ママは今日も野暮な仕事を頑張ろうと思う。喜んで。



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