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“ミケーレがお好きですか”

ファッションのことはよく分からない。
ずっとそう思って生きてきた。

分からないとはどういうことか分解してみると、何が分からないのか分からない……
となってしまう。結局のところそれは、「自分の知らないルールが存在していて、知らないうちにそのルールを外して、バカにされたり恥をかいたりするのが怖い。」という気持ちだったと思う。
しかもそのルールは細分化されたファッションのジャンルごとに存在すると思ったらさらに怖い。

私のダサ人生については以前書いたとおり。
(この記事、実は本気で泣きながら書いた)

高校時代に芸術科(美術専攻)へ進んだことは自分にとって大きな出来事だった。
端的に言うと皆オシャレだったんである。
時は1990年代。クラスの中でひときわ目を惹くモデル体型の女の子は入学式の日からTRANS CONTINENTSのショルダーバッグで登校していた。懐かしい。

CUTiE! Zipper! ヒステリックグラマー!
NICE CLAUP……Do! FAMILY……Par Avion……SUPER LOVERS……20471120(←調べないと書けなかった)……
ジェリーインザメリーゴーランド、FLIP-FLAP、魚喃キリコ、PUFFY、スワロウテイル、JUDY AND MARY、タイトでキュートなヒップがシュールなジョークとムードでテレフォンナンバーな青春時代だった。
私にとっては目にするもの耳にするもの全部が新鮮で慣れなくて、「ぐぬぬ、オシャレさんめ!」みたいなヒネた気持ちもちょっとあったし劣等感を刺激されることもあったが、初めて知った世界はとても魅力的だった。

いま振り返るとファッションだけじゃないね、所謂サブカル的な世界に触れられたのも大きかったなと思う。

通っていた学校は自由な校風で、とりわけ芸術科のクラスに居て感じたのは「変人扱いされない」という安心感だった。
自分の思っていることを口に出しても怪訝な顔をされないし、面白い(興味深い)と思うことについて遠慮なく話せる。私は高校に進んでから楽に息が出来るようになった。
放課後のアトリエでクラスの何人かと話をしていて、誰かが「こういう話を他人としたのは初めて」とぽつりと言い、私を含めた全員で深く頷いたのがとても印象に残っている。


さて私自身が自覚的に服を選ぶようになり、ファッション楽しいかも?? と本当に思うようになったのは、大学卒業後に就職して百貨店に勤めたあたりからのことだった。
石が好きだったので宝飾品の会社に入り、配属先が百貨店だったわけだが、百貨店内にあった組曲にハマった。あとワコール
どちらも初めて買ったアイテムをよく覚えてる! (ワコールで買ったのはパルファージュ!)
こんなにも自分の好きな世界が存在したんだな~! と思った。でも心のどこかで、「組曲のお洋服、私は好きだけど、高校時代の友達の考えるオシャレとはジャンルが違うんだろうな……」とも思っていた。

百貨店では働いていたフロアが「高級雑貨」という冗談みたいな名称のところだったのもあり(高雑と略す……、宝飾・時計・眼鏡・呉服などが並ぶフロアです)、目の肥えた大人達に囲まれていた。販売員もお客さまも、大抵の方は当時の自分より歳上、且つ良いものを知っている方々だった。お買いもの好きな人達に囲まれていたとも言える。

自分自身のお給料は全然多くなかったが、扱う品物はウン十万~のものもザラにある。この時代、私の金銭感覚はバグっていた。今はちょっとお戻りになった。
当時も今も高価なものはおいそれとは買えない。けれども自分の生活を彩り豊かにしてくれるものにお金を支払う意味、みたいなものを、この頃に知ったのは大きかったなと思う。


そして2012年の秋、GUCCIの財布を買うのである。(唐突)

自分の勤める田舎の百貨店にGUCCIは無く、新幹線に乗って買いに行った思い出。

今はなきプーペガールに投稿していた画像

この染めのグラデーション、美しい細工、メダリオンのデザイン! 今こうして写真で見返しても溜め息が出る。
使っている本人(=私)はとっても気に入っているのに、人から全然褒められないという特徴のあるお財布だった。何故だ。

実はこのとき、当初はまったく違うデザインの財布を見にお店に行ったのだ。
しかし店頭でこちらに出会い、その渋い美しさに心を持ってかれてしまったんである。
まさに「自分のためのもの」としか思えなかった。

当時のデザイナーはフリーダ・ジャンニーニ。アレッサンドロ・ミケーレの一代前に当たるそうです(調べた)。
どうしてGUCCIを選んだのか。特別な理由はなかった。
しかし10年後に自己紹介バッグを買おうと思い立ったとき、まずGUCCIを見ようと思ったのには確実にこのお財布の存在があった。結果的に布石となっていたのだろう。


その10年後の2022年秋、自己紹介バッグを買った。

ホースビット1955 トップハンドルミニ。
(ちなみにGUCCIさんでは10年前の購入記録がまだ残っていた。さらに仲里依紗さんのYouTubeを観る限り、おそらく国境も越えて残る記録のようです。)
このときデザイナーは言わずと知れたアレッサンドロ・ミケーレである。しかし私はミケーレの名前いつ知ったんだったかな……。自問自答ファッションに出会ってなかったら、デザイナーに注目することはあまりなかったかもしれない。

このときも私は、依然として「ファッションのことはよく分からない」と思っていた。
ただ、バッグはとても気に入った。
私は『これだ!』と思ったら猪突猛進タイプで、じっくり比較検討せず買ってしまう。それで後々「あちらにすれば良かった」と後悔することは意外となく、ホースビットも大切な相棒になった。

しかし、何が『これだ!』だったんだろう。

バッグ本体について言えば、形もデザインも色も醸し出す雰囲気も全て好きだった。
さらにバッグ購入後、靴を見に行ったり、スカーフを見に行ったりして、もともと良いイメージのあったGUCCIというブランドに勝手ながら親しみを持つようになった。

なんとなく……なんとなく落ち着く感じ……伸び伸び出来るような……美と優しさとオモロ感が同居してるような……香り。
を、GUCCIから嗅ぎ取っていた。

例えば私はDiorにも惹かれるし(持ってないけど)、自分のコンセプトや雰囲気に合いそうなアイテムがあるブランドだと思う。
Diorは真っ向勝負のキラキラ感(そしてそこが素敵なのだが)。しかしそんなDiorさんでは無視されそうなユーモアを、GUCCIさんはニヤッと笑って受け止めてくれそうな気がするのだ。
※すべてイメージで言っています

そういえばDiorはフランス、GUCCIはイタリア。お国柄による雰囲気の違いもあるのかもしれない。
※イメージです

GUCCIのこの“楽に息が出来る安心感”、実は私には覚えがあって、高校時代の雰囲気を思い出すのだ。
少し尖ってて、でも優しい人たちに囲まれた、変人扱いされる心配のない日々。
美しさの中に見え隠れする違和感、奇妙さを、丸ごと受け入れているような世界。
ハイブランドが属するのは紛れもなくカウンターカルチャーに違いないのだが、それでもどことなくサブカルに通じる匂いのようなものを私はGUCCIから感じていて、そこが好きなんだと思う。


そんなことを考えていた矢先、私は一本の動画を観ることになる。

きっかけはあきやあさみさんのnoteである。

こちらの記事で紹介されていた『The Gucci Twinsburg Fashion Show』。GUCCI 2023春夏のショー。
私がこれを観たのはバッグを購入してから7ヶ月経った頃のことだった。

鳥肌が立って涙が出た。感動で。

ファッションのことはよく分からない。
でも、自分がこの舞台に感動し、この世界が好きなことは分かった。
(ミケーレさんのお母さまは双子だったそうです。そしてこのショーの観客にはロールシャッハテストが配布されたらしい。かっちょいい演出!)
何度も見返したし、それは恋に似た感情だった。
そこで思い至るのである、ブランドはこのショーで表現されている世界を身に付けられるよう、日常的に落とし込んだアイテムをお店に並べてくれてるのか~~~!! ということに。
ファッションはよく分からないが、舞台として、芸術としてなら少し分かった……というか、ただ自分の感動を信じればいいんだと思ったのである。

そうしたら持ってるバッグとスカーフに一層の愛着が湧いた。どちらもこのショーとはシーズンが違うと思うが、このショーの世界を作った人が作ったバッグとスカーフだ。
そう、私は「ファッションとは自己表現である」ということは理解していたのだが、
「そのファッションアイテムこそが、そもそも誰かの表現を形にしたものである」
という視点はこのときまで意識していなかったのである。

私は好きな作家の作品を既に手にしている。
好きな世界のひとかけらを。
しかもそれは身に付けられるんである!
最高じゃないか。

ミケーレェ……
(ショーを観たときは既に退任していた)


ところで私は場の人数が自分を含めて3人を越えると口数が減っていく習性がある。
これは私が当たり障りのない会話が苦手なことが原因なのだが、
2人のときは2人の共通言語を探して、
3人のときは3人の共通言語を探して……
という感覚で会話をするので、人数が多くなるほど、言語の最大公約数を探すのが難しくなる。

でも文章を書くときは違う。

不特定多数に向けて書くので、どのみち共通言語なんて分かるはずもない。共通言語が分からないなら、自分自身の中を探って、自分の言葉を発するしかない。そしてそれこそが『表現する』ということだと思っている。

今年の1月にあきやあさみさんの自問自答ファッション教室に参加した。

そのときの私の悩みのひとつが「どんなジャンルのお洒落をした人と会うにも堂々としていたい」というものだった。
頭の中で思い浮かべていたのは紛れもなく高校時代の同級生。アーティスティックでちょっと個性的で、肩に力が入ってないのにお洒落な雰囲気の人々だ。
彼らの中に組曲の服が好きだった人は多分いない。
GUCCIのバッグを買ったときも、少しだけ彼らがチラついた。「分かりやすいブランドバッグなんて持ってどうしたの」って思われそうで。

でもな~。そんな人たちじゃないよね?? って今は思う。
前述のGUCCIのショーは紛れもなく芸術表現で、それは彼らこそが理解し共感してくれそうなことじゃないか。

いま振り返ると、表現の道に進んでいた同級生たちが当時からファッションに敏感だったのは必然なんだろうと思う。
みんな自分の言語を持っている・もしくは探している人だった。
(当時の私には“めかしてないでデッサンの1枚でもやれや~!” みたいな気持ちも正直あった。すまんかった。そんなだから私はダサの刑に処されたのだ。)

それにきっと、自分の言語に真剣に向き合う人ほど、他人の言語も尊重して優しい目を向けるのだと思う。
あきやさんがそうであるように。

出来ることなら、自分の言葉を話すように装えたら理想だなって思う。
実在するのか分からないルールを外れることや、人の価値観を気にするんじゃなくて。
難しいかもしれないけど。


「ミケーレがお好きですか」

これはスカーフを見に行ったときにGUCCIの店員さんから訊かれた質問だ。
そのときはまだ前述のツインズバーグのショーを観ておらず、(好き……だと思うけど、はっきり言い切れないな~よく知らないのに好きって言って良いのかな?)と考え、言い淀んでしまった。

今ならミケーレさん好きです! って元気に言うと思う。
自分の中の『ちょっと変かもしれない部分』を気にせずにいられるような、その世界が好きです。
ありがとう。

これを書いてる現在、既にGUCCI新デザイナーのサバト・デ・サルノ氏のコレクションが発表され、それはとても素敵なことだが、私はもう少しミケーレさんの作品のピースを手元に置いておきたくてジタバタしています。

このお話はまた後日できれば。

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