見出し画像

無自覚に国語の教科書教材を使うことの危険性

教科書の編集には、当然ではあるが編集意図がある。
教科書検定制度があることからもわかるように、そこには「国」の関与があることからも、編集者や執筆者によって一定の価値基準に沿ったものが作られる。

国語の教科書も同様であり、教材の選定には特定の規準が働いており、掲載されている教材を子供が読むことによって、その規準に合致した価値観が育まれることになる。
「教育はソフトなイデオロギー装置」なのである。

例えば、小学校の教科書では、「平和」「環境」「情報」「人権」などの問題を扱った説明的文章教材や、「成長」「他者・自然とのかかわり」などを主要テーマとした文学的文章がラインナップしているのを散見する。
それが「意図」の一端である。

こうした明示的な教科書の「意図」に対して、「国語は道徳ではない!」と主張し、教材の扱い方の工夫をする教師はこれまでも多く存在した。

しかし、教科書はそうした「意図」を分かりやすく見えるようにしているだけではなく、隠すかのようにして、ある「思想」を忍び込ませていることを石原千秋氏は『国語教科書の思想』(ちくま新書,2005)で暴いている。

氏によれば、国語教育は道徳教育に傾斜しすぎているとともに、小・中学校の教科書の小説教材には、<父>が不在しており(例えば「ちいちゃんのかげおくり」「一つの花」)、「自然に帰ろう」というメッセージが込められている(例えば「大造じいさんとガン」「海の命」)という。
それは、国語教科書が<母=自然/父=文明>という図式を隠していることにほかならず、「自然に帰る」ためには、文明の象徴である<父>は邪魔な存在だというわけである。

さらに氏は、『読者はどこにいるのか 読者論入門』(河出文庫,2021)において、国語教室での読み方が女子学生の感性に支配され再生産されている恐れがあるとも述べている。
前田愛によれば、大学等での近代文学担当教師が女子学生の立場からの読みを無意識に行っているのだという。したがって、その演習を受けた学生が全国で国語教師として教壇に立ち、その感受性を広めていくことが懸念されると石原氏は指摘する。
つまり、教室で読むことの指導をしているとき、実はそこに教師である自分の性別が深く関わっていることになるのである。

このことから石原氏は、先の「国語教科書の思想」が「女子学生の感性」と関連している可能性も言及している。(石原2021)

以上の、石原氏が論じている内容の詳細は二冊の前掲書に譲るとして(お読みいただくことで、性差別とはまったく異なる文脈であること、むしろその逆であることがご理解いただけると思う)、今ここで述べたいのは、教師の教科書教材に対する自覚的な姿勢の必要性である。

教師が自らの教育行為に対して、ともすれば受動的になりがちで自動化しやすいことはしばしば指摘されるところであり、私もこの「リフレク帳(ヒント帳)」で繰り返し述べてきた。

教師は、「国語は道徳ではない」と考えていながら、実は道徳的に扱っていたり、無意識に教科書教材に潜んでいる価値を強要していたりすることがないかどうか、自らを相対化して検討する必要があるだろう。

国語の教科書に潜んでいる「思想」を注意深く批評しながら教材化することが教師に求められている。