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伊勢物語 第四段 梅の花盛りに

 昔、東の五条に大后宮がいらっしゃった その西の対に住む人がいた。

その人を、本気ではないが、気持ちの深い人が行き訪ねたが、

(その人は)正月(旧暦一月)十日位の頃によそへ隠れてしまった。

 (その人の)いる所は聞いたが、人が行き通う所でもなかったので、よけいにつらいと思いながら、いたのだった。

 次の年の正月に、梅の花盛りに、去年を恋しく思って、(西の対に)行って、立って見、座って見、見るけれども去年に似るはずもない。

少し泣いて、荒れ果てた板敷きに、月が傾く(沈みかける)まで横になって去年を思い出して詠んだ。

  月やあらぬ 春や昔の春ならぬ 我が身一つは元の身にして

(月はそうではないのか、春は昔の春ではないのか、私の身一つだけは元のままであるのに) 

と詠んで、夜がほのぼのと明けると、泣く泣く帰ったのだった。

 


「月やあらぬ」の歌は、昔から二つの解釈がある。

それは、助詞の「や」を疑問と取るか、反語と取るか、による。ここでは疑問で解釈している。

反語での解釈は、中国の漢詩文の影響による。年々歳々花相似たり、というわけだ。

 高校で教える時には、一応両方の解釈を教えて、次のような話をする。

 恋愛の最中に恋人と見る景色は、とても美しく見える。これはホルモン分泌と関係があるという。
  恋人に振られてから、同じ所へ行って、同じ景色を見ても、以前のような感激はなく、
ただ広漠たる景色が広がるだけ。まるで違う場所のように見える。
・・・景色が変わってしまったのか、この春がいつもの春ではないのか。
・・・自分はあの時の自分と同じだ、中身は今も全然変わってはいない。なのに何故風景はあの時のように輝かないのか・・・・・・。
 個人的には昔彼氏と行った場所に未練たらしく行くのは嫌いだ。しかし、別れて一年後、初めて勤めた学校がそちらに有っては仕方がない。
泣く泣く毎日、昔見て感動したはずの海を見ながら通勤した。
  昔見た、昼の海の、六甲と淡路島の間を通って消えていく船、そして、夜の海に浮かぶ、輝く豪華客船のような神戸の街、あの景色はどこに行ってしまったのか、ここには無い、と思った。

  だから、証明は難しいけれども、個人的には反語の訳は採らない。

「春は昔の春ではないのか、いや昔のままの春だ」、なんて。

 

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