雪と月の輝く夜に: 光る君へ 35回「中宮の涙」
光る君へ(35)「中宮の涙」感想でございます。
◾️金峯山寺へ――御岳詣
前回の終わりからの続きですね。
石山寺詣はセット撮りでしたが、こちら、金峯山は実際の地での撮影だったのでしょうか。
実際にいったことがないので映像だけではわたしには判別がつきませんが、ともあれ、周囲の景色が美しくて思わずうっとり。(ドラマを見なさいって)
前回の説明では、お参りに出かける前の100日間、潔斎(肉食、酒、色を避ける)するというのですから、ちゃんと信仰としては真面目なんだなあと思いました。
現代人はお参りと言いつつ観光半分で出かけますからねえ。心構えが違う。
道中の危険は賊ばかりではなく、ドラマ中にもありましたが、疲労による体調不良や急病で、下手をすればお亡くなりになることもあるわけで、出かける人も見送る人も「これが最後かもしれない」という気持ちは大袈裟ではなかったでしょう。
これをチャンスと見て伊周さんが道長さんご一行を襲撃する、暗殺を目論むというのは100%のフィクションとも言いがたく、伊周・隆家兄弟が、左大臣を殺してしまいたいと物騒なことを言っていた、という話も残っているそうです。
実際に納められた経文は道長さんの直筆のものが残っている(てことは発掘されたんですねこれ)そうで、潔斎の期間中か、あるいはそれ以前から写経をしていたんですね。
やはり、現代人には失われた真剣な信仰心というものが感じられます。
その本願は思いっきり俗っぽいことだとしても。
そして命懸けのミッションから帰還した道長さんが、まひろちゃんの局を訪ねるのにはちょっとほっこりいたしました。
「原稿は進んだ?」
というのを口実に、まひろちゃんのところに気軽に会いに行く――道長さんにしてみれば、これは嬉しい状況なのでしょうね。
できたばかりの草稿をさっそく見せよと言われたまひろちゃんが
「お疲れでございましょう?」
と、戸惑い、伺うようにいうのを聞いて
「お疲れだからこそ、じゃないの♡」
と思わずニヤニヤした人、多かったのでは(笑)
◾️鏡の物語
それにしても「物語」の効果について、このドラマではしみじみ考えることが多いです。
光る君のモデルはあの人か、この人か、この俺ではないのか、などというのももちろんですが、「夕顔」の死を思う一条帝――主上に、なるほどなあと思いました。
ちなみに。
NHKさんのドラマ字幕を見ると「お上(かみ)」となっていますが、どーもわたしとしては「主上」と表記したくなってしまいます。ご了承ください。
光る君に感情移入する主上としては、夕顔の死が惜しまれるのでしょうね。
このキャラ、なんで死ななきゃならんかったの? とつい作者に詰め寄ってしまう気持ち、わかるわ~。
桐壺の更衣にしろ夕顔にしろ、愛する女性を失うその悲痛さが、主上には自身の悲しみと重なってしまうのでしょう。
現実で味わった自分の苦痛は、物語の中では救われてほしいと思うところが人間にはあります。
けれども救いを求めた物語の中ですら、愛する人を失う悲傷が描かれる。いたたまれない。
なぜ彼女は死ぬしかなかったのか? 思わず作者を詰めてしまう気持ちもわかりますね。
この時点では夕顔がなぜ死んだのかははっきり明かされません。ただ、どうやら強い怨念によって殺されたのだということはわかる。
主上の立場からすれば、道長さんに恨まれているのではないかという疑いも濃くなる場面なのかもしれませんね。
そして、自分が現実で味わう苦痛は、物語の中では美しく昇華されて救いとなってほしいという気持ちは彰子さんも同じ。
光る君に引き取られて養育されている、まだ10歳の幼い若紫。
今後、紫の君はどうなるのかと問われ、「まだ決めていない」というまひろちゃんに彰子さんは言います。はっきりと。
「光る君の、妻になるのがよい」
その口調の、今までにない強さに、はっとするまひろちゃん。
彰子さんは続けて独り言のように「妻になる……」と言い差してから、
「なれぬであろうか」
と、まるですがるようにまひろちゃんに問うのですね。そして
「藤式部、なれるようにしておくれ」
命令してもいいはずのことを、願いごとのように言う。
彰子さんの胸にある想いが、物語を鏡として映し出されているのですね。
まだ幼い頃から引き取られて育ち、妻になるか、それとも子ども(養子)という立場のままになるか。
彰子さんにとってはそれは自分の姿だったのでしょう。
若紫には、光る君の妻になってほしいという願いは、彰子さんの「妻になりたい」思いの反映。
物語の効果はこんなところにある。
自分で自分を客観視し、自分が持っている「本当の思い」を「正確に」理解するのは、案外、人にとっては難しいものです。どうしてもいろいろと、余計なことを考えたり、打算があったり、あるいは他の誰かの思惑を優先してしまったり、社会規範を優先したりで、「雑音」が多いから。
でも、自分の姿を鏡に映すと、そんな雑音を排除して、自分の「本当のこと」が現れる。それに対面せざるを得なくなる。
主上も、彰子さんも、源氏物語を通して、自分自身の心、自分の姿を見ているのですね。
◾️中宮の涙
まひろちゃんはそのことをよく理解している。
「中宮様。帝に、まことの妻になりたいと、仰せになったらよろしいのではないでしょうか。
帝を、お慕いしておられましょう?」
「その息づくお心のうちを、帝にお伝えなされませ」
この場面は見ているこちらも、じーんとしましたねえ。
誰も自分を理解などしない、というか、自分でも「本当の自分」を認めていない。
そう思っていたところへ、的確に、かつ柔らかく受け止めて、あなたはあなたのままでいいのではないかと言われたら。
泣いちゃいますよねえそりゃあもう。
そんなところへいきなりやってくる主上。
息子である敦康親王がいないとわかると、そのまま帰ろうとするもんだから、彰子さんとしてはもうたまらない。
お飾りの中宮として主上にも無視されてしまうことが、もはや限界でもあったのでしょう。
主上!と呼びかけるや顔を上げて、溢れる涙も拭わぬまま
「お慕いしております!」
と叫ぶ。
これはある意味、度肝を抜かれましたね。
まひろちゃんの
「えっ?! 今?! 今いう?!!」
という表情がなんとも(笑)
そしてそっと主上を見ると、無理もありませんが完全に固まっている(笑)
彰子さんにとってはそれはもう、魂から搾り出すような、一世一代の叫び。
もはやその後に継ぐ言葉もなく、涙で声にもならない。
とはいえ、主上と彰子さんの視線はこのとき、今までになくばっちりと合っている。
それまではとにかく彰子さんはまともに主上の顔を見ようともしなかったので、主上としても、その目とまともに合ったのは初めてだったのではないでしょうか。
固まったままの主上は「またくる」とだけ言ってお帰りになってしまう。
「帰るのかよ!」
と、みんな一斉に直秀になったであろう瞬間でした。
この場面の芝居については、こちら↓の記事が興味深かったです。
脚本では「絶望的」でしかなかったものが、役者さん同士の芝居の化学変化によって、ただ絶望だけではない、それぞれの心の微かな触れ合いが、たしかに描かれた場面になったのではないでしょうか。
小説とも違い、役者さんによって立体化される脚本(戯曲)の不可思議さが現れていた。
そんな気がします。
◾️月を見しかば
今回気になったのは、まひろちゃんの「不義」発言と、道長さんは気がついたのか? 問題。
藤壺の宮と光る君の不義密通。
なんでこんなエピソードにしたのという道長さんに
「自分の身に起きたことだから」
この発言に、明らかに道長さん、不機嫌そうになってますよね。
まひろちゃんが、宣孝さんとも道長さんとも違う誰かと同衾したと考えた顔だなそれは。
違うよ。
「オマエのことだよ!」
と、全国の視聴者からのツッコミが入ったんじゃないかと思います。
恐ろしいことを言う、ってそりゃあんただよ! あんたがやらかしたんでしょうが!
イマイチはっきりしない状況だったとはいえ、あの時のまひろちゃんはいちおう亭主持ちだよ? それへあんなことして「俺のそばで暮らすことを考えないか」つったのはあんたでしょうよ!
彼がまひろちゃんの言う「不義」に気づいたか、気づかなかったか。
まひろちゃんの娘、賢子が誰の子か、疑いもしないのか。
気がついたのであろう、という解釈もある。
まあフツーは気がつくよね? とはわたしも思うのですが。
どうなんでしょうねえ……あの描写だけでははっきりとはわかりませんでした。
案外、気がついていないんじゃないかという気もします。
なにせ本作ドラマの道長さんは、鋭いところは鋭いのですが、基本的にはぽやーっとしている「ホワイト道長」さんなので。
(史実の道長さんがブラックなので、このドラマの彼は、一部からはホワイト道長と呼ばれている)
今回も盛りだくさんの40分でございました。
主上の、藤壺へのお渡りのあった夜、いい感じで一緒に月を見ている左大臣様と藤式部でしたが。
物陰からそれを伺う女官が一人。
べつに立場上、不都合はないはずですが、なんとなく不穏の気配が致しました。
これはまた、次回(以降)ということに。
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