【ショートショート】珈琲問答
俺の向かいに座っていた友人は、湯気が上がる珈琲に口をつけることなく席を立ち去った。
この喫茶店は妙だ。いくら注文しても商品は出てこない。友人と俺に珈琲が一杯ずつ出されただけだ。彼はそんな店に腹を立てて席を立ったのだろうか。
彼が残した珈琲がやたらうまそうに見えた。少し飲んでみようか。いや、彼は帰ってくるかもしれないし、他人の物を盗むのと同じではないか……。
しかし、空っぽになった自分のカップを見つめていると、たっぷり入った目の前の珈琲が欲しくなる。息が荒くなり、唇が乾いてパサパサになってきた。できるだけ、できるだけ、温かいうちに飲んでしまいたい。ほんの少し、口を潤すだけ。
気付くと無意識にカップを手にとり我慢できずに珈琲に口をつけた。
苦みの強い珈琲が舌に触れた瞬間、俺は吹雪の山の中腹でビバークしていた。
少しずつ思い出す。
遭難から2週間、食料はとっくに底をつき、相棒と2人互いに一杯の珈琲が最後だった。あまりに過酷な状況野ため、妄想に囚われていたらしい。テントの隅には寝袋に包まれた相棒の死体。この珈琲は相棒の分だ。足元には空になった俺のカップが転がっていた。
早く妄想を世界に戻らなくては、狂ってしまう。 だけどきっと、何度、妄想の世界に戻っても俺はこの苦い珈琲に口をつけてしまうだろう。
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