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わたしの仕事

初めて自分で仕事を作った。その名も「だれでも書けるよ エッセイ講座」だ。昨年6月に開始して、細々と現在まで続いている。大きな売り出し方をしてこなかったのもあって件数で考えたら決して多くはない。けれど、”名作”を最初に読める機会をいただけるこの仕事が、わたしは好きだ。

エッセイ講座はオンラインで開催している。お客さま1名と2時間ほどカメラ通話を繋ぎ、ひとつの作品を作り上げていく。オンライン上で一緒に文章を編集できるGoogleドキュメントを利用するから、お客さまの書いたものがほとんどタイムラグなしに読めるのだ。すごい時代に生きている、と思う。

講座が始まったら、簡単にご挨拶をする。初めてのお客さまには自己紹介をしたり、受講のきっかけを聞いたり。リピーターの方には、近況を聞いたりしてね。そして、するりと本題に入る。初めてのお客さまには、エッセイの書き方から簡単にお話する。そして、初めての方やお題が思いつかない方とは、一緒にエッセイのお題を考える。慣れた人は大抵、自分でお題を持ってくる。

お題が決まれば、あとは執筆だ。人によるけれど、お客さまがお題に沿って思いつく限りをだだーっと書き、そしてわたしがそれを頭から一緒に読んで、質問をしていくことが多い。

お客さまがひとりで書く間、わたしはカメラ通話の画面とドキュメントの画面を同時に見られるようにして、注意深く観察する。そうすると、お客さまが何を書くときにどんな表情なのか、どこで頭をひねっているのかがわかる。文章に魂を込めるお客さまは、唇がきゅっと結ばれているし、ラフに自分を表現するお客さまは、口元が緩んでいる。(わたしがこれを今書いているときの表情、どんななんだろうと思ったりする)

お客さまによっては、だだーっと書く、というのが苦手な方もいる。5行程で自力で書くのをギブアップする方も珍しくない。そんなときには、会話だ。わからないところを質問をしたり、「それで?」と続きを促したり。「書けないんです」という方は多いけれど「喋れないんです」という方は少ない。会話で喋れば、必ず書ける。これは講座をやっていて発見したことだった。

こんなことを言うと恥ずかしいのだけど、わたしは自分を、書けない人よりは、書ける人だ、と思ってた。だから「書けない」が何なのかわかってなかった。

エッセイ講座をやってよかったことの一つは「自分は書けないと思ってる人」が実際に「エッセイを書けた!」という過程を、間近で見られたことだ。喋れば書けた、質問に答えていたら文章になっていた、という事実は、わたし自身が書けない日に救いとなった。

書けないとき、文字通り頭を抱えてしまう。どうにも文章が出てこない。自分が何を言いたいのか分かんない。こないだは、途方にくれて机にほっぺたをのせていると「喋れば書けるんだった」と思い出せた。そして、頭の中で会話を始める。すいすい、とは言わないけれど、多少なりとも言葉が出てくる。これでいいんだった、と肩の強張りが抜けた。

「書けない」が何なのか。実はまだはっきりとはわかってない。でも、どうしたら書けるか、の方法は、ひとつわかった。喋ること。口から出てきたそのままを、書き付けること。今のところの一番気持ちいい解決策は、喋る、だ。

エッセイ講座をやるまでは、書ける人と書けない人がいるんだ、と思っていたのだけれど、違ったみたい。書けることと書けないことには、はっきりとした境界線はないんだろうなあと今は思う。

書けない日がある自分がエッセイ講座なんてやっていいんだろうか、と思うことは今でもある。でも、きっとどこかに価値がある。喜んでくれるお客さまがいる限り、ずっと続けたい。これが、初めて作った、”わたしの仕事”だ。

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