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ある日のこと(かつお)

朝起きてカーテンを開けると、やさしいピンクの曇り空。窓を少し開けたら、ひゅんとした空気が指先に届いて、すぐに閉めた。キャッツがくっつくシーズンだ。

カーテンは、開けたままにしておいた。

***

今日も仕事だ。そして進まない。わたしの仕事ってどうして進む日は5時間で一週間分くらい進むのに、進まないときは1mmの半分も進まないのだろう。今日も1mmの日だ。うええ。

お昼を食べようと外に出たら、引っ越しのトラックが二台来ていた。10月頭に引っ越していったなと思ったら、もう新しい人が越してきたらしい。このマンション、驚くほど空きが短い。かくいうわたしもこのマンションが公開されたその日に契約を申し出てしまった。ほんとのほんとに海辺で、オートロック、築浅。内装写真のきれいな白い床とハザードマップ(海辺で津波が心配だったが全く問題なし)、博多や福岡空港まで最寄り駅から乗り換えなく行けることを確認して、内見もせずに即決した。
越してきてみると、駐車場には県外ナンバーが半数以上で、移住ブームを感じる。我が家の車もそのうちの一台で、大宮ナンバーだ。埼玉に行くまで、大宮なんて地名、知らなかったけれどね。

大宮、で思い出すこと。

わたしはときどき、もう二度と行かないだろう場所を思う。まだ歩き始めたばかりの双子と一緒に行った小さな動物園、テントを張って過ごした芝生の公園、道路を挟んで家の目の前なのに車通りが多くて到着に時間のかかる小児科。もう二度と行くことはないだろう。以前の職場は今も繋がりがあるから行くことはある。その最寄駅も。けれどその他の場所は、もう思い出でしかない。
双子が生まれる直前まで楽しんだ欧風カレーのお店、夫と交際する前に初めて「デートしよう」と言われて出かけたショッピングモール。その後に行った江戸川区の河川敷で見た花火大会。夫に告白された公園や、婚姻届を出した後に行ったサンシャイン水族館。妊娠し、それが双子とわかって夫がイスから飛び上がった産婦人科(彼はまじでイスから飛び上がっていたが、あれ以上に驚いているのは見たことない)。転院して双子を産んだ総合病院。
双子が通った小さくてきれいな保育園。保育園の前のドラッグストアでよく、卵や豆腐を買ったな。

もう行くことのない場所たちは天井のようにわたしの上にいつもあって、ふと見上げると思い出が降り注ぐ。

不思議なことに、学生時代を過ごした熊本には、そんな気持ちを持ったことがなかった。なぜだろう。自分だけの思い出だからだろうか。それに、別れたひとや好きだったひとが今も住んでて、なんていうか聖域で、特別なときにしか戻れない感じがある。埼玉は、行こうと思えば行けるのだ。でも、きっとここにはもう行かないなぁと思う場所がたくさんある。

埼玉への郷愁は、わたしだけじゃなくて夫や子どもの思い出が混ぜこぜになっていて、それっていろんな味のお菓子が入った大きな袋みたいだ。手を突っ込んで、どれだけ適当に掴んで取り出しても、わあ美味しそうといつだって思えるものばかりだ。誰かとの楽しかった記憶ばかり思い出すんだ、嫌なことも辛いこともたくさんあったんだろうに。
記憶って、都合よくできてるんだな。嫌な思い出が色濃く残らないのは、語り尽くして成仏させてきたからだ。心のなかにぐつぐつに煮えた辛くて憎くて仕方のない出来事も、誰かに説明するとただの音か、紙切れの上の文字でしかなくて、この紙切れで自分がこんなに苦しむのってバカみたいだ、と元の場所に立ち戻れる。書いて喋って、はいおしまいにできるのだ。

そう簡単に行くもんかといつも思うけど、ちゃんと書いて喋ってれば1ヶ月後には大抵の嫌なことは忘れてる。これは経験則として、わたしの知っていることだ。

逆に、楽しかったことは書いて喋ったぶんだけ、シンプルに楽しかった思い出になっていく。楽しかったことも、心のままに語っていたい。

だからわたし、書くな喋るなって言われたらすぐに腸閉塞を起こして死ぬ気がする。食べたものは全て、栄養をとったらすぐに排出していくスタイルなの。

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そういえば今週末は「おみそ旅行」です。おみそ。三十路になり、みそのついた友人たちで行く旅行。高校時代の部活仲間の全員が30歳になったら行こうと、28歳の頃から計画してたの。友人5人の中で一番遅く生まれたわたしが30歳になり、とうとう計画が実行にうつされる。今年の前半に大雨の影響を受けた地域なのだけど、お客さんが減っているらしいから積極的にお金を落として楽しんでくる。温泉だ。肉だ。

そして、今更だけど、今更なのだけど旅行までに痩せないかなと思ったりもして、ダイエットレシピを探したりする。生まれてこのかたずっと小太りだったけど浪人時代に13kg痩せて、すらり。としたのもつかの間。大学に入って2年で元通り。そこから8年で5kg増えている。つまり浪人前プラス5kg。増えている。増えているぞ。

食べて栄養をとって痩せる、ってのが大事らしいね。今夜の夕飯に取り入れます。明日中に痩せるなんて無理だけどさ、こういうあがきが楽しいんだよ。

出来事から栄養をとって排出するのと同じなんだね。食べるって、生きることのひとつで、わたしが今経験している嫌なことも楽しいことも生きることのうちに入っているんだね。

それならますます、くちに入れるものには気を配りたいな。

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最近考えていたことがあって「ずるい」ということについてなんだけど、わたし、一度も「ずるい」と思ったことがない。記憶にある限りは。
誰かが一般的な苦労(学校生活だと宿題、テスト、掃除とか)をまぬがれたり、自分より楽をしていても、全く気にならない。同様に「羨ましい」ともあまり思わない。あと、お買い得を逃しても気にならない。得をしないことは損じゃないと思ってる。

努力してそんなふうに思えるようになったわけじゃなくて、育てられ方なのか、生まれ持っての価値観なのか、なにかがわたしを自然とそうさせてきた。ひとりっこで、誰かと比べられる機会が少なかったからかもしれない。

ただ、ひとつまずいと思ってて。わたし、自分がただ恵まれていただけのことを自分の運、というか当たり前のものだと思い、それは他人にも等しくあるものだと思ってきた。平等や公平を欲する気持ちが少なくて、与えられた場所とチャンスでわたしは生きるしな、と思ってきた。でも、他人に対してもそんなふうに思っている場面があって、それはちょっと違うよなぁと思った。だから、福祉って、公平って何なのか、半年くらい前から気にかけている。
気づく前までわたしは「ずるい」という言葉を使う人がとても嫌いだった。けれど、何か背景があるような、そんな思いが今はある。

とはいえ今も、ずるい、とは言いたくないと思っている。嫌いな言葉ってあるよね。わたしは「ずるい」「うざい」は使わないで生きてきて、それでよかったと思ってる。

で、先日。
子どもが唐突に「おかあちゃん、”ずる”って知ってる?」と言ったからわたし、結構ドキッとしたのだ。
「先生がね、じゃんけんで、あとにだしたりするのは、ずる、なんだって言ってた」という。
ああ、そういう「ずる」ね。先生って色々教えるものだね。じゃんけんで後出ししちゃダメって言うより、ずるしちゃダメって言う方が楽なのかな。でもさ、なんかさ、ずる、って言った途端にすごーく故意な雰囲気じゃないですか。だから「ずる」って言葉が嫌なんだよなぁ。後出しジャンケン、っていう事実だけ表現するんじゃダメですか。

などと考え、一瞬「余計なことを教えるなぁ」と思ったけれど。余計かどうかはこの子たちが決めることだったね。
きっとわたしもどこかで誰かに「ずる」を教えられて、それでも大して関心もなく、使ってこなかった。だから「余計」だと感じるだけだ。

願わくば、双子が「ずる」と言いたい場面に出会うことなく、生きてくれたらいいなと思う。

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