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小説 『センセイ』

4月、わたしはセンセイを嫌いだった。
3月、わたしはセンセイとキスをした。夕方の理科室で、14年の人生で初めてのキスをした。
区で一番ダサいと言われた制服のプリーツスカートが揺れていた。身長145cmのセンセイの茶色いボブヘアに、そのとき初めて触れた。

あの春、確かにわたしとセンセイは恋をしていた。

月曜日の22時すぎ。シンクにたまったお皿を見て、腕まくりをする。
子ども用のウサギの絵の皿に、カラフルなスプーン。無印で買った木のお箸が、白いマグカップにいくつも刺さってる。マグカップは青いねこが描かれているホーロー製で、形も絵も気に入ってるんだけど、ちょっと口当たりが悪くて、でも捨てられない。

シンクのお皿たちを食洗機に入れながら、わたしは中学校の理科室を思い出していた。卒業して20年経つのに、ずっと頭から消えない記憶。

校舎の2階の理科室には、木製の引き戸を右にがらがらと引いて入る。正面の窓全面にかかる黒くて重たそうなカーテン、島のようにいくつも並んだ大きめの机に、四角いだけで背もたれのない木のイス。そして黒板。記憶の中のセンセイは、黒板の一番上の一番左に赤いチョークで「めあて」と書いていた。精一杯、つま先立ちをして。

(めあて)
センセイが黒板に書く字をわたしは、一番前の真ん中の席から目で追い、手で書き取った。教卓越しに見えるセンセイはぴったりしたチノパンをはいていて、腰回りは少女マンガみたいに細く、頼りない。わたしはセンセイを好きではなかった。4月の進級式で生徒ががやがやと騒いでいたとき、並んだ先生たちの中で唯一、体育館にぴりぴりとした怒りを露わにしていたから。わたしは怒る人が嫌いだった。


食洗機にお皿とお箸とマグカップを詰め込んで、がっちゃんとドアを閉める。いくつかのボタンを3回押したら、がうんがうんがうん、じょ、じょわわあああと食洗機が頑張り始めた。泡のハンドソープで手を洗いながら、わたしはまだ記憶の中にいた。

進級式での悪い印象を引きずったまま受けた彼女の授業に、わたしは引き込まれてしまった。真面目な子も斜に構えた子もみんなセンセイの話に耳を傾けていたように見えた。それは彼女が他の教師よりも圧倒的に生徒と同じ目線にいたからだろうなと思う。
ワックスで髪を立たせた男子の「せんせー、なんでちんこは勃起するんですかー?」という質問がクラスで失笑されても笑顔で受け止め、「真面目に答えるから、真面目に聞いてよ?」と黒板にその絵を描いて説明するような人だった。
センセイは大学で研究した星の話をするとき、一番楽しそうだった。わたしは自然と彼女に自分の未来を重ね、「自分も大学でケンキュウシツに所属して、ケンキュウをするんだ」と思うようになった。

センセイに向かって、わたしの心は知らぬ間に傾いていく。

夏。
朝早く登校し、彼女の乗るセダンが校門から入ってくるのを3階の廊下から眺めるのが習慣になった。ある朝、恐る恐る、校舎に向かって歩くセンセイに3階から声をかけた。こちらに気づいたセンセイに手を振ってもらっただけで、その日は寝るときまで浮き足立っていた。

センセイのボブヘアは随分明るい色をしていた。卒業アルバムでも、黒髪や白髪の多い先生たちの中で、センセイだけほとんどオレンジ色の茶髪で、ぎざぎざの天使の輪っかができていた。肌は白くて、黒とか、ボルドーの服がよく似合う人。あんまり特徴のないつるんとした顔立ちで、決して美人ではなかった。真顔だとちょっと怖い。でも、いつも少しだけ微笑んでる人だった。

秋。
早朝の職員室前でセンセイが本を貸してくれた。寺村輝夫のぼくは王さまシリーズだった。そこからお互いに本を貸し借りし、感想の手紙の交換が始まる。センセイの字は黒板よりも手紙のときの方が小さく丸かった。その独特の丸文字は、一文字ずつ読めば字なのに、手紙全体を俯瞰するとまるで楽譜のようだった。センセイがくれる封筒は、日に日に厚みが増していく。もちろんわたしが渡す手紙も。

冬。受験が近づく。
わたしの志望校は校区で一番偏差値の高い高校だった。母はなんとも性格の激しい人で、一緒にいて楽しいときと苦しいときの落差がすごい。わたしのことを死ぬほど憎んでるんじゃないかと思うくらいナジるときもあれば、あなたを愛してるからお父さんと離婚しないんだよと泣くときもあった。父とはほとんど別居していたので、母一人、子一人で暮らす一軒家は、広いのに狭く、明るい外観に反して内側の空気はずっしりと重い。そんな中でセンセイと手紙をやり取りし、借りた本を舐めるように読む夜は救いだった。

ある日。職員室で他の生徒も交えてセンセイと話していると、センセイが「これ、貸すって言ってた本」と小さな紙袋を渡してきた。教室に戻って見てみると、それは江國香織の『きらきらひかる』で、表紙をめくると付箋が貼ってあった。

差し上げよう。
(でも他の人にはヒミツです。)

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足元から込み上げてくる熱い何かで、お腹も胸もいっぱいになって膝が震えた。ヒミツ。センセイとわたしにヒミツができちゃうなんて。

その日のセンセイの授業では、随分と熱い目線でセンセイを見つめてしまった気がする。もはや遠い過去の出来事だけど、あの熱量だけは忘れようがない。


これが恋だ、と気づいたのはいつだっただろうか。
わたしは過去に数人の男子に恋をしたこともあったし、センセイと出会う前には手を繋いだ程度の可愛らしいお付き合いをしたこともあった。そういう自分が女性を相手にして沸き立たせているこの感情は、一体何なのか。当時の日記に「これって友情なんだろうか」と書いた自分も、実はこれが恋だと知ってたのかもしれない。


ざうざうざうざう、と食洗機が鳴る。中は見えないけど、真っ白い泡が食器をきれいに洗うさまをしばし想像する。どんなにお皿を汚しても、あの泡と高温のお湯が、何もなかったみたいに食器をぴかぴかにしてくれるのだ。

わたしの中のセンセイの記憶は、こんなふうにキレイにまっさらになることはないみたい。並んで喋った職員室前の廊下の机の傷だとか、乗せてもらった車から見るセンセイの横顔だとか、車で一緒に聴いたYUKIとかスピッツとか。センセイの服の柔軟剤の匂いとか、作ってくれたお弁当のおにぎりがずいぶん小さかったこととか。
記憶の壁からぽろぽろ落ちるカケラだけが、ふわっとまぶたに現れて、しばし現実を侵食してくるのだ。


卒業式の前日、わたしはセンセイとキスをした。

夕方の理科室で、14年の人生で初めてのキスをした。黒いカーテンで遮られた窓の外には、桜が今まさに咲こうとしていた。一箇所だけ開かれた窓から風が入り、カーテンが揺れるたびに明るい日差しが床に現れては消える。

わたしたちはもう元には戻れないところまで来ていて、互いの世界に侵入し合っていて、舌も絡めてないのに大事な大事なものを乱暴に交換してしまっていて、もはや彼女はわたしで、わたしは彼女だった。

中学生のわたしは、あの恋がいつか終わるなんて、夢にも思わなかっただろう。たった一瞬が永遠になるようなキスをして始まった恋。わたしの高校の合格も、大学の合格も、一番に報告をした人。けれど彼女はわたしが大学でどんなケンキュウをしたのか、知らない。

別れてから数年の間、わたしはYUKIとスピッツが聴けなくなった。

シンクがきれいになって、月曜日が終わる。その他には、なんにも終わらない。ただ続いていくのだ、ずっとずっと。そう信じているから、今日も安心して眠れる。

洗った手を拭いて、キッチンの明かりを消した。廊下に出ると、リビングよりも随分寒い。音を立てないように歩いていたつもりだけど、暗闇にぺた、ぺたと足音が鳴る。夫と子どもの眠る寝室に入り、自分のベッドに横たわった。暗闇に少しずつ浮かび上がっていく窓の外からの光と、空気清浄機の音。使い慣れた枕。毛布。どれも彼女を知らないモノたち。

あの人がどんな声でわたしの名前を呼んだか、今はうまく思い出せない。いくらでも思い出せると思ってたのに、もうこんなに遠くに来てしまった。センセイのおかげで死なずにいられた、と思うことが何度もあったのに。

それでも、彼女が今わたしを思い出してくれてたら、なんて一切思わないからこの恋はもう、とっくに死んでる。

まぶたの裏に張り付いたセンセイの横顔を遮るように目を開けて、もう一度閉じた。ぬるい涙が耳のくぼみにたまって奥まで滴り、じゅわ、と鼓膜に音を立てる。
生まれたときも、こんな音がしたのかもしれない。わたしはすこしだけ泣いて、眠りについた。


***

フィクションみたいな、ノンフィクション。


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