見出し画像

学校なんて必要ない?


 こんにちは、高等遊民です。本稿は、結論からいえば学校教育(その場・その性質)を肯定する立場から執筆します。そのため攻撃的な表現をすれば、不登校や学校不要論に対して寄り添いません。かといって大正義を振り回すつもりもないのですが、必ずしも読んでいて万人にとって気持ちのいいものではないと思いますので、嫌な胸騒ぎがした方はここでブラウザバックをすることを推奨します。


きっかけ


 単刀直入にいえばnoteで拝読したとある記事を契機にモニターに向き合っているのですが、その投稿が主張するところは「今は色々なリソースと手段があるから学校へ行く必要はない」といったものでした。

 個人的に私はこの主張に部分的には賛成します。それは単に学力の向上を目指す(ここでいう学力は受験も突破するためのものだと思ってください)という文脈で言えばその通りだからです。今やネットの大海には素晴らしい教材がわんさか溢れています。しかしその場合は"塾に行く必要はない"の方がより正確なような気もします。

 一般的に学校へ行くことは学力を養うことをだけを目的としたものではありません。むしろ、それは我々の肉体・精神を涵養するための一つの手段でしかなく、あたかも学校=学力向上という本来的には成立しない関係とすり替えて論じる点は極めて短絡的だと思い、そのような主張に至る背景を批判的に考察していきたいのです。

 noteという媒体を閲覧するようになってから早4年になりましたが、このメディアの特性として"内面を暴露する方"が非常に多い傾向を感じています。よりポップに換言すれば、SNSであれば鍵アカウントでつぶやくようなことを執筆のネタにするような方がそれなりに居るということです。私個人としては、これは大変おもしろく、というのも他人の本音というものに触れる機会は私の実生活ではそう多くはなく(それが悪意であるとすれば尚更)、飾らない告白が、言い方はオワってますがエンタメとして良質であると感じるためです。事実は小説より奇なりというのはよく言ったもので、著名な作家のいわゆる駄作を読むくらいなら、駄文でも個人の内実に忠実な投稿を読んでいる方が読書における充実感があります。

 下がりきった好感度に梃入れをしたいわけではないですが、私は何もそういった文章を嘲笑うことで栄養を得るような荒んだ精神はしていません(していないつもりです)。ただ純文学を楽しむように、興味深く拝読させていただいているという方が近いです。「おもしろい」なんていうあやふやな言葉を使っていますが、私の語彙ではこれ以外でこの感情を射程に捉えられるものを知らないので、仕方なく、消極的に用いているのです。

 さて、なぜこのように脇道にそれるような前置きをしたかといえば、学校不要論といいますか、不登校関連のポストといいますか、こういったものはやはり、極度に個人的でセンシティブな内実を孕んだものですから、メディア特性的にnoteでは殊更珍しいトピックではないことを確認するためです。だから私もよく目にしてましたけれど、なんで堪忍袋の尾が切れたように、ある意味ではマイノリティ(noteでは必ずしもそうではないかもしれないが)へ対して反旗を翻すようなことをしようと思ったのかは私自身も皆目見当がつきませんが、ただなんとなく自己の経験と、noteを支配する"優しさ"が違っているような気がして、私はそれを種に一筆逆張りをしてやろうとでも考えたのかもしれません。ともかく、きっかけは些細なことでしたし、ここではそれは普遍的なものですが、あえて紅一点的な立場で振る舞うことにしてみたのでした。


不登校になった友人とその顛末


 私の周囲には、いわゆる不登校を経験した人が2人います。実はその両名は私のエッセイのモチーフとして登場しているのですが、彼らの顛末として1人は自殺し、1人は大学(学校)へ復帰しました。他人の不幸を記事のネタにするなんて、なんて最低な人間なんだと自分を罵ってやりたくなりますが、それはまたの機会とします。

 その中で、今回取り上げたいのは大学へ復帰した友人です。あくまで主観であり、さらに経験としても分母2のうちの1つでしかないという点に細心の注意を払うためにここで強調しておきます。私のような感受性にも倫理観にも欠ける人間の言を信じてやる価値はありませんので、ぜひご自身の意見を末長く大切にお持ちください。

 いちいち復学した友人と呼称するのも面倒くさいのでI(アイ)と呼びますが、Iは不登校になってからも、学校へ行くことを(過去の学校生活を取り戻すことを)切に願っていました。これはnoteで見られる不登校者・経験者による言説とはだいぶ異なります。私が閲覧した記事の中では、彼らの多数がそもそも学校への復帰を全く希望していませんでした。

 そもそもIが学校へ行けなくなってしまった理由は、起立性調節障害と鬱によるものでした。もともと私と彼は旧知の仲で、学校で孤立していたというような背景もなく、ある日突然体がだるくなり、それに呼応するようにうつ状態になってしまったと言います。これは本人から直接聞いた話ですが、この発言が彼の内心を素直に告白したものでない可能性も十分にあり、特定の要因が心身へ大きな負荷をかけていたがそれを隠しているというケースもありえます。ただし、少なくとも私の観測・体験上では、Iは学校に戻りたがっていました。

 結果的に言えば、彼は高校を退学し一年間休養を挟んだことで、学校への復帰に成功します。もちろん、大学とそれまでの学校では拘束時間や自由度が異なりますから、これで不登校を解消した(そういう言い方をするかわからないが)と形容することに批判があれば、それはごもっともであると思いますが、ただ事実そういった境遇から集団生活へと復帰したということは、少なくとも彼にとっては大きな意味のあることでした。

 私はこの一件から「不登校が必ずしも登校する事を拒否しているとは限らない」ということを認識しました。


ケアとしての不登校肯定や学校不要論


 私は批判されるためにこの記事を執筆しているわけでも、共感されるために書いているわけでもないですが、強いてその目的を設定するとすれば「自己の不登校経験が不登校への歪んだ認知、ステレオタイプへつながる可能性へ警鐘を鳴らすこと」になるでしょうか。かなり攻めた主張ですし、まあ実際にIのような思想を持った人がマジョリティだとは思いませんが、ただそういう人が存在すると知っている私からすれば、「不登校肯定」が毒になりうるとも思うのです。

 今から安っぽい正義を振り回します。後で全部否定するので一回火傷するつもりで読んで下さい。不登校経験者による「自己体験が他の不登校者もしくは経験者にとっての羅針盤になることを期待して善意で執筆する」記事はnoteではよく見られますが、「学校なんか必要ない!」というような強い主張を被せて他者の体験を肯定することは、その実では翻って自身の過去を肯定しつつも他人を自己と同化させることによって安心を得るための手段になってやいませんか。"本当の善意"なんて言い始めたらキリがないですけれど、私はむしろ突き放してやることの方が、回り回って最後には他者にとっての希望になりうるのではないかとぼんやり思うのです。

 さて大反論へ移りましょう。まず、私はわかったような顔でこれを書きましたが、3歩引いたところから客観視すれば、経験にも共感性や感受性にも欠けているボンクラの妄想の戯言です。私はなんらかの分野の専門家でもありませんし、人に講釈を垂れることのできる立場ではない上に、まさか智者でもないので、大体書いてることの大半に説得力がありません。

 また「優しい言葉」に救われる人こそいれど、「厳しい言葉」で救われる人などごくごく少数いるかどうかということです。今彼らにとって必要なのは、あなたの経験からくる説得力のある"優しい言葉"かもしれません。それが救いになって前を向いていける可能性もあります。

 そして、noteに執筆することが「自分にとっての救いになる」と割り切っている人にとって、その行為を否定することなんて絶対にできません。一応私は「割り切っている人」の記事についてではなく、「善意で・人のためになると思って、共感記事を書いている人」を対象にして激烈な批判をしたつもりでしたが念の為。

 上記と比較したら、「学校なんていらない!」という短絡的で極端な主張に首肯することなど造作のないことです。心は一度壊れたらなかなか戻らないし、何より人命が優先されますから、自分の尺度で正義を振り回すことこそ、むしろ私の自慰行為でしかありません。

 私はケアとしての不登校肯定や学校不要論は、その意味で道理にかなっていると解釈しています。ただし同時に「それで救われない人もいる」という、僅かに残る可能性に対して全くの無知でいる事を簡単に良しとしたくないです。「行かなくてもいいんだよ!」で全ての不登校が救われるわけではないと思うのです。


自己肯定としての学校不要論


 またもや強火の思想を主張しますが、不登校経験者が自己肯定として学校不要論を主張する際に、やたら「自分はできた」というような論調を見かけます。これは3つのパターンが邪推されます。
①本当に優秀なパターン
②劣等感の裏返しというパターン
③客観性を獲得できていないパターン
 こんなこと言うことでもありませんが、そもそも人口のうち「優秀」とされる人の割合などたかが知れているので、①であることは確率的にほとんどありません。もしかすると、いわゆる高IQが理由で「馴染めない」ことが不登校に直結するため、実は不登校にはいわゆる「優秀層」が多いという可能性もありますが、IQだけがその人の社会性を左右するとは私には到底思えないので、この言説には私個人としては懐疑的にならざるを得ません。

 であれば②、③が考察できますが、この場合は往々にして主張と感情が入り混じっているのではないかと思います。これを個人の言い訳として了解するのは容易いですし、そもそも突っかかるような事を私からする必要も全くないのですが、仮に「学校不要論」が自己肯定の手段として展開されている割合がある程度高いとすれば、そもそもこの言説自体が存在の割に力のないものであるという可能性に気づかされます。

 大概小学生くらいの男児は「めんどくさい」といって「学校なんていらなくね」と平気で言います(少なくとも私は言っていました)がここでいう「学校いらない」の中には例えば「そこで出会った友達もいらない」というのは含有されないケースの方が多いと思いますし、そんな事を言っている生意気な小学生の大半は大人になれば学生時代のエピソードをそれなりに楽しく回顧しているでしょう。(もちろんそうでないパターンだって考えられますが)だとすれば彼らの「学校不要論」というのはあくまで方便であって、本気の主張ではありません。

 ならばこれを謳う人のカテゴリーはなんらかの属性を持つ人々の可能性が高く、それが自己肯定としての学校不要論だった場合は、繰り返しになってしまいますが、世に蔓延る割に、誰かを照らすでない、空虚な言説であるという事です。


おわりに


 ここまで読んでいただきありがとうございます。
多くの場合、この趣旨の投稿は「学校教育がもたらす学力向上以外のもの」に着眼して展開されると思いますが、今回はそれを主張する人々の側を批判的に考察することで、「学校なんていらない」という言説に対して、一定の意義を見出しつつも、その非力さを見つめました。

 これが強者の理論と言いますか、ポジショントークになっている事を否定できませんが、逆に、不登校でも学校不要論者でもない人がこのトピックについて考える、ないしは文字に起こすということもnoteではそう多くはないと思うので、その意味での価値が芽生えればいいなと空想しながら〆ます。

ありがとうございました。

高等遊民


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?